1923年~26年 賢治にとって“ジャズ”がマイブームだった。
2019.12 ささきたかお
最初に1918年~27年頃までの賢治(敬称略)を取り巻く音楽事情について羅列してみます。
1918年(大正7年) 賢治22歳。盛岡高等農林学校を卒業したころ蓄音器の魅力の虜となる。
全米では前年1917年に、初めてジャズがレコード化されオリジナル・デキシーランド・ジャズ・バンドの ♪Livery Stable Blues(後の邦題「馬小屋のブルース」)が100万枚のヒットとなる。
そのころ日本では1915年(大正4年)浅草オペラが生まれ、1917年にはスッペ作喜歌劇「ボッカチオ」の劇中歌 ♪恋はやさし野辺の花よ」や第1次世界大戦中に欧米でヒットした ♪It's a Longway to Tippireryが「女軍出征」の中で ♪チッペレリーとして歌われた。
1918年の年末に、賢治は在京中の妹トシの看病のために母イチと上京し、賢治だけが残りトシの回復後3月、共に帰郷。約3か月間東京で過ごすことになるが、それ以前の1916年(大正5年)独逸語講習や翌年、家の商用で上京した際にはすでに浅草オペラや映画が楽しみの一つになっていた。
当時の映画館では、無声映画に合わせて演奏する奏楽はヴァイオリン、フルート、ピアノにセロが入る程度で、地方の映画館では楽士はせいぜい一人か二人であった。
一方、波多野兄弟の波多野福太郎と 弟の波多野鑅次郎(こうじろう)は太平洋航路の船の中で演奏をし、寄港先から米国の新しい音楽を持ち帰り演奏していた。
彼らは1918年、船上での演奏に終止符を打ちハタノ・オーケストラを設立。銀座「金春館」に出演、10人~12人編成のスタイルで ♪金春マーチなどの演奏で人気を得た。
1920年(大正9年) 後に賢治にチェロを教えることになる大津三郎がハタノ・オーケストラに加入。
音楽学校でセロを習っていた大津はセロやコントラバスを担当した。
同じようにこの年の暮れには、歌舞伎座・松竹シネマの奏楽として楽長・島田晴誉以下10数名の編成で演奏。
*別紙資料 参考その1
また、翌1921年にはハタノ・オーケストラは横浜・鶴見「花月園」で10か月間演奏した。
1921年
6月17日からは浅草帝国館で“松竹獨特ジャヅバンド”のふれ込みでの演奏が行われた。*上記の新聞切り抜きは、浅草帝国館の広告です。
1921年(大正10年) 賢治は1月23日に無断上京し、8月頃には妹トシの病変の知らせを受け帰郷することになるが、ちょうどこの時期と重なり浅草帝国館での演奏(6月17日~)を聴くチャンスはあった。
1921年(大正10年)12月、賢治は稗貫農学校(後の花巻農学校)の教諭となり、年が明け藤原嘉藤冶と出会い意気投合。
1922年(大正11年)には、神田「東洋キネマ」でも同じような映画館での奏楽が行われ、「松竹キネマ」は銀座「金春館」を買収し大編成の奏楽は人気の時代を迎える。
当時の人気曲等の状況は、
*別紙資料 参考その2 参照
この年黒柳徹子の父黒柳守綱は、所属していた三越少年音楽隊の解散を経てハタノ・オーケストラに加入している。
賢治は5月21日には「春と修羅」に着手。11月最愛の妹トシが病気で失うという大きな出来事がある。
1923年(大正12年) 「シグナルとシグナレス」や「火薬と紙幣」などを書く。前年のトシの死去後の沈黙から抜け出し「イギリス海岸」「牧歌」ほか「永訣の朝」を書き留める。エスペラント語「イーハトーブ」が生まれた年でもある。
1924年(大正13年) 賢治28歳。4月心象スケッチ「春と修羅」刊行。8月には「ポランの広場」を創作。12月童話集「注文の多い料理店」刊行。「銀河鉄道の夜」を起案。
ハタノ・オーケストラは「帝国ホテル」で演奏を続けるものの、映画は「無声」から「トーキー」へと変わり、映画館での奏楽は低迷し、多くの奏楽演奏者は活動の場を失う。
1925年(大正14年) 山田耕筰、近衛秀麿等が中心となって日本交響楽協会を設立。大津三郎も黒柳守綱も加入。NHKの開局の年でもある。
7月「岩手軽便鉄道 7月(ジャズ)」。
1926年(大正15年) 近衛秀麿は日本交響楽協会を脱退し新交響楽団(後のNHK交響楽団)を設立。大津三郎も近衛秀麿に就いて参加。
賢治3月依頼退職、夏「羅須地人協会」設立。年末セロを習うために上京し、大津三郎に手ほどきを受けるのはこの時期にあたる。「セロ弾きのゴーシュ」起案。
1927年(大正16年) 9月、賢治のお気に入りの映画「肉体の道」が上映されるが、その奏楽者として黒柳守綱は、映画に合せてチェロを弾いたと言われている。
ざっと、1918年~27年の賢治と当時の音楽状況について羅列しました。
ここから何が見えて来るか。
最初に、当時の「ジャズ」という音楽の捉え方はどうだったのか。
日本にジャズが上陸したのは1920年の加州グリー倶楽部「カリフォルニア大学グリークラブ」の初来日公演で、東京日日新聞が「ジャズ」解説記事を書き、東京神田の演奏会は、米国やドイツ、タイの大使 も出席した盛大なものだった。この時期、国内でもハタノ・オーケストラが映画館の奏楽で人気を得るようになるが、当時の映画館で演奏された曲はクラシックなどを含めた当時の“洋楽流行曲”(ポピュラー音楽)で、別紙資料参考 その1にあるように「カルメン」「アイーダ」「ユモレスク」「軽騎兵序曲」といった曲も総じて「ジャズ」と呼ぶようになっていた。
賢治は1916年の上京のころから浅草に出入りしており浅草オペラや映画を観賞していた。1921年(大正10年)の無断上京の時期には、6月17日封切の浅草帝国館での「松竹獨特ジャヅバンド」の演奏を聴いていた可能性は十分にある。
「ジャズ」という言葉が賢治作品に登場し始めるのは1924年(大正13年)の作品「ポランの広場」からだ。(1924年に花巻農学校の生徒に筆写させた草稿(欠落あり)のみが現存。そして、1924年8月に花巻農学校の生徒を役者として上演された。実際はそれ以前に執筆されたと推定されている。)
「ポランの広場」第2幕
時 、千九百二十年代、六月三十日夜、 処、イーハトヴ地方、
人物、キュステ 博物局十六等官
ファゼロ ファリーズ小学校生徒
山猫博士
牧者
葡萄園農夫
衣裳係
オーケストラ指揮者
弦楽手
鼓器楽手
給仕
其他 曠原紳士、村の娘 大勢、
ベル、人数の歓声、Hacienda, the society Tango のレコード、オーケ ストラ演奏、甲虫の翅音
幕あく。 ・・・・・
と、ト書にあるように幕開け前の曲としてタンゴの曲♪ Hacienda, the society Tango の レコードが演奏される。
さらに劇中登場する猫博士は広場で演奏をしているオーケストラに向かって
・・・(オーケストラはじまる。)
山猫博士 「おいおいそいつでなしにキャッツホヰスカアといふやつ をやってもらひた
いな。」
楽 長 「冗談ぢゃない、猫のダンスなんて。」
山猫博士 「やれ、やれ、やらんか。」
(オーケストラはじまる) ・・・・・
このシーンに登場するキャッツホヰスカア(猫のひげ)という曲は、デキシーランド・ジャズの実存する曲 ♪ The Cat's Whiskersで、演奏しているは、セントルイス生まれのチェロ奏者エドガーA.ベンソンのマネージメントによって1920年シカゴで結成されたシカゴ・ベンソン・オーケストラの曲であり1923年に発売された。
さらに「ポランの広場」には、♪ Flow Gentry,Sweet Afton や♪ In the Good Old Summertime といった英国や米国のホームソングが賢治創作の日本語詞で歌われている。
*♪ Flow Gentry,Sweet Afton については*別紙資料参考 その3 を参照
1923年(大正12年)頃に賢治は、タンゴやジャズ、英米のポピュラーソング、
いわゆる洋楽の流行音楽を良く知っていたことになる。
さらに今一つ注目すべきは、前出の ♪ Hacienda, the Society Tango が録音されたのは1914年3月6日ですが、日本で紹介されたのは1921年という事になっている。
(「宮沢賢治の音楽」佐藤泰平著には 「一九二一年版ビクター・レコード目録」に掲載されているとしている)
そのB面に♪ Desecration Rag という曲が入っている。
デセクレーション・ラグDesecration Rag ( A Classic Nightmare)
Introducting ragtime Perversions of “Humoresque”(Dvorak)-“2nd Hungarian Rhapsody”(Liszt)
-“Rustle of Spring”(sinding) - “Impromptu”(Chopin) - “Millitalre Polonaise”(Chopin) - and Chopin's
“Funeral March” / ピアノ Felix Arndt Victor 17608B 1914.03.06
注) Desecration Rag 冒とくラグ Perversions 曲解・こじつけ
クラシックのピアノ小品をラグタイムのリズムで演奏し茶化している(冒とくしている)ナンバーです。
賢治の詩の代表作「春と修羅」の中の一篇に1923年9月30日の詠まれた「火薬と紙幣」という詩がある。その中に
・・・・・・・
鳥は一ぺんに飛びあがつて
ラツグの音譜をばら撒きだ
という件がある。ラツグとはRagtime のことです。
飛び上がった鳥がラグタイムの音符のようにばらばらあちこちに飛び跳ねる。といった表現で使われている。
賢治は「ポランの広場」の創作時には、 Hacienda.The Society Tango を聴いて知っていました。当然B面のこのDesecration Rag も聴いていたことになります。「火薬と紙幣」にラツグという表現はこの曲がもとになっていると考えられる。
ラグタイムはディキシーランドジャズが生まれる前の音楽スタイルで、ドビュッシーも1908年に「子供の領分」に収められたラグタイムを連想させる「ゴリウォーグのケークウォーク」、翌年には「小さな黒ん坊」といった、その後のビバップの和声法(ジャズのスタイル)に影響を与えたといわれる曲を作曲している。
さらに、翌1925年(大正14年)7月19日作の「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」、翌々年同人雑誌「銅鑼」7号に載った「ジャズ夏のはなしです」といった具合に“ジャズ”が登場する。
「セロ弾きのゴーシュ」はジャズ・ストーリーだ
このような状況の中で書き始めた「セロ弾きのゴーシュ」。
「セロ弾きのゴーシュ」が起案されたのは1925年頃とされているが、賢治がセロを習うために上京したのは1926年大正15年、12月の昭和に元号が変わる頃。
映画はトーキーとなり、奏楽の仕事は斜陽の一途をたどり始めたころで、前年に近衛秀麿が新交響楽団を設立し、賢治さんにセロを教えることになる大津三郎も新交響楽団に加わっていた。
賢治さんが大津三郎にセロを習うことになった経緯については *別紙資料 参考その4 を参照
「セロ弾きのゴーシュ」や「賢治とセロ」については、佐藤泰平さんの「宮沢賢治の音楽」はじめ様々な本ですでに詳しく書かれていますが、特に「セロ弾きのゴーシュ」については、情報共有者である中山智広氏のブログ「仙台発JAZZ行き5分遅れ」に以下の記述と同じような視点がより詳しく書かれています。
*別紙資料 参考その5 を参照
「セロ弾きのゴーシュ」 の当時の音楽との関わりについてポイントを洗い出してみると、
①主人公のゴーシュは町の活動写真館でセロを弾く仕事をしている。
大津三郎もハタノ・オーケストラで映画の奏楽の仕事をしてきた。映画の奏楽では、クラシックだけではなく流行の曲や映画の中の擬音までいろいろなことが要求される。
②ゴーシュが所属するオーケストラは「金星音楽団」という。
銀座にあった「金春館」のイメージでは?または、浅草オペラの「金龍館」(大正8年~12年)。「星」は関西の「新星歌舞劇団」に由来したとも考えられる。
③ゴーシュは楽団の中であまり上手とは言えず、いつもみんなの足を引っ張っていると楽長に怒られる。
賢治が上京の際に新交響楽団の練習風景を見る機会があった。その時の楽長のイメージではないだろうか。
「セロ弾きのゴーシュ」の楽長は斎藤秀男の指導ぶりと似ている、ということから、齋藤が新交響楽団の指揮者になった1927年6月以後に、賢治の上京、新交響楽団の練習を見る機会があったと推測していす。
『嬉遊曲、鳴りやまず―斎藤秀男の生涯―』 中丸美繪氏
賢治が描きたかったのは、クラシックのオーケストラではなくジャズなどを演奏していた
映画館の奏楽オーケストラだったのでは?
子狸が現れるシーン、背中にくくり付けてきた楽譜を見て“ 何だ愉快な馬車屋ってジャズか”という場面がある。「愉快な馬車屋」という曲について、ジャズなどの洋楽のが専門の筆者にとってすぐにピンと来たのは、1917年に初めてジャズがレコード化されたオリジナル・デキシーランド・ジャズ・バンドの ♪Livery Stable Blues(後の邦題「馬小屋のブルース」)だ。その根拠は、邦題の「馬小屋のブルース」は戦後つけられた題名で、当時は ♪Livery Stable Blues と言っていた。直訳すると「馬車屋のブルース」となる。 Livery Stable とは、馬車の駅のようなところで馬の世話などもしている場所のこと。そして曲調も馬の嘶きや大太鼓の音などが入っていて本当に愉快なイメージの曲で、子狸がセロのコマの下の絃を叩き、ゴーシュのセロと一緒に演奏する場面が描かれているが、これは正にジャズ・セッションといえる。
佐藤泰平さんの「宮沢賢治の音楽」では、後出の「印度の虎狩り」のヒントになった♪ 印度に虎狩りにですって というレコードと同じレコードカタログに載っていたという理由から「愉快な牛乳屋」ではないかと唱えてるが、曲調がヨーデル調で場面には適合しない。
また前出の ♪The Cat's Whiskers を賢治は知っていたことからすれば、同じディキシーランドジャズ曲の大ヒット曲 ♪ Livery Stable Blues を知ってたことは容易に考えられる。
そして、「セロ弾きのゴーシュ」の中で、猫に威嚇するように弾いた曲、演奏会のアンコールにも登場する曲「印度の虎狩り」について、佐藤泰平著「宮沢賢治の音楽」では、この曲について昭和六年(1931年)五月二十五日の東京朝日新聞と岩手日報の広告欄にビクターレコード音楽目録六月号の紹介があり、その中に「印度へ虎狩りにですって」(ニューメイフェア―ダンスオーケストラ)B-5936が実際に載っていたことが書かれている。「印度の虎狩り」の元歌がこの曲原題「Hunting Tigers out in “Indiah’」であるか否かは不確定だが、この奇妙な曲調が英米で人気を呼んだのが1929年。賢治の好奇心からすればこの曲に耳が奪われたとしても不思議ではない。「セロ弾きのゴーシュ」が書かれた時代とかろうじて符号する。
「印度へ虎狩りにですって」(ニューメイフェア―ダンスオーケストラ)は、ビクターレコード音楽目録
昭和六年(1931年)十月号 (画像中央付近、「愉快な牛乳屋」は右から三列目)にも掲載されている。
このように「セロ弾きのゴーシュ」には、奏楽で演奏しなければならないような「洋楽ヒット曲」を登場させていて、クラシックは“第6交響曲”とか“なんとかラプソディ”といった具合できちんとした曲名を書いていないこともこのストーリーがクラシックのオーケストラを描こうとしていないことが推測される。
以上のようにこの時期の賢治作品には、「紙幣と火薬」の中に出て来る「ラッグ」、「ポランの広場」のディキシーランド・ジャズの♪ The Cat's Whiskers、「セロ弾きのゴーシュ」に出て来る“ 何だ愉快な馬車屋ってジャズか”という台詞、さらに「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」、「ジャズ夏のはなしです」といった具合に「ジャズ」に関連する言葉がいろいろと使われている。さらに「ポランの広場」には上記のようにタンゴ曲や英国や米国のホームソング(ポピュラーソング)が登場している。この時期日本でもジャズ・ブームのような兆しがあったものの、“ジャズ”と言う言葉が一般化するのは二村定一が唄った「私の青空」や「アラビアの歌」がヒットした1928年頃になってからだ。
賢治の音楽情報源は?
こういった音楽情報を賢治はどこから得ていたのか。当時のレコード会社各社が出していた月間「レコード音楽目録」から得た情報がその多くを占めていたことは確です。また、親友・藤原嘉藤冶の追想によると、「新しいレコードでシューベルトを聴いたりベートーヴェンを聴いたりしますと、すぐにその楽聖たちの伝記や曲の解説を、原書まで読みあさり、あとまで忘れないのです。音楽のことなども、ですから専門の私よりずっとくわしく知っています。」(森荘己池「座談会・賢治素描」『宮沢賢治の肖像』(津軽書房)。このように物事のあらゆるその延長上にある情報についても良く知っていて、相当の情報通であったことは推して知るべしである。
また、当時の日本の“ジャズ”を取り巻く情報は、・・・大津三郎との3日間のレッスンの後にお別れの茶話会をやった。・・・いわれているが、ハタノ・オーケストラで映画の奏楽の体験を持つ大津三郎から得た情報もあったにちがいない。
総じて賢治は確実に1922~23年にはジャズを知っていた。そしてこの時期の何年かの間、頭の中に“ジャズ”というマイ・ブームがあった。それもまだ“ジャズにもなっていない「当時の日本のジャズメン?が演奏するジャズよりも本場もののジャズ」を聴いて知っていたことになります。
*別紙資料 参考その1
日本において洋楽曲に注がれる視線が強さを増してきた背景の一つとして、活動写真の奏楽を
忘れてはならない。館内に初めて大管弦楽団が出現するのは、大正9年(1920年)歌舞伎座に
おける松竹キネマ第一回の公演(11月1~7日)である。半月のち、大阪道頓堀の角座でも松
竹キネマの旗上げ興業が行われた。そのときの宣伝文句にいう。
・・・本邦映画界最初の試みにて、楽壇の権威山田耕作(のちに耕筰)氏登場。40名の楽手を監
督し、楽長・島田晴誉氏、加瀬順氏指揮の下に演奏す。(11月12日夕刊 大阪朝日新聞)
東京の歌舞伎座のメンバーも同じであったにちがいない。松竹キネマは新橋の金春館も買
収し、同年大晦日から記念興業に島田指揮の管弦楽団20名を出演させた。さらに浅草へ進
出し、帝国館で10年6月17日からジャズ・バンドを出す。同時に金春館でもジャズをはじめた。
他館も松竹キネマを見倣って、「カルメン」「アイーダ」「ユモレスク」「軽騎兵序曲」などを繰り
返し繰り返し演奏していく。こうした“洋楽流行”がレコード界にも反映し、松竹管弦団、敷島倶
楽部管弦団、芦辺管弦団、IPC管弦楽団など活動館専属の管弦楽レコードが発売される。もち
ろんレコード会社も、ニッポノホンオーケストラ、三光堂専属オーケストラ、日東管弦団、帝蓄管
弦楽団、東亜オーケストラ団のように、専属の楽団を抱えはじめる。
・・・・「洋楽レコードが広く一般の家庭に歓迎されるのも遠い時代ではなさそうだ」
(大正12年1月27日 大阪時事新報)
倉田喜弘著「日本レコード文化史」岩波書店より
*別紙資料 参考その2
1910年代後半にかけて浅草六区と呼ばれる地域は映画興行の中心地でした。
浅草帝国館のプログラム「第一新聞」の投稿文からは観客の活発な言説的交流がうかがわれます。
たとえば、休憩奏楽をめぐる発言では「カルメン」(1919.1.18)、「ウィリアムテル」(1920.2.
21)、「コルネビーユの鐘」(1919.5.3)などのリクエストが載っています。
また、1918年8月17日付けの人気投票の結果は、休憩奏楽としてた「ダブリン湾」138票、「カ
ルメン」65票。活劇用では、「ウィリアムテル」序曲 54票、風景用は「美しく青きドナウ」116票。
悲劇用では、グノー「ファウスト」71票、バルフェの「ボヘミアン・ガール」63票といった具合で、
無声映画館の楽士たちが演奏していた楽曲の一部を垣間見ることができます。
そして、1917年には「日本のヂァッズは、こんな所から生まれはしないかと」といった記述もあ
ります。実際のところ日本における「ジャズ」の一般化は1928年ごろからで、浅草オペラの人気
者二村定一の「私の青空」「アラビアの唄」のヒットをきっかけに“洋楽はやり歌”を総称して「ジャ
ズ」と呼ぶようになったといわれています。この頃から神戸・横浜が発信地となり様々なジャズバン
ドが登場するようになる。
参考文献: 柴田康太郎 「サイレント期の東京における映画館の音楽実践、観客の音楽受容」
美学. 第68 巻1 号(250 号)2017年6月30 日刊行. から一部引用
*別紙資料 参考その3
「フローゼントリー」は「牧者の歌」の原曲。
清六さん(賢治の実弟)によると、Oliver Ditson(1811– 1888)が設立した19世紀後半の主要な音楽出版
社のひとつであるOliver Diston Company から出版された 「Home Songs for Mixed Voice 」という本が確かにあったといいます。 「宮沢賢治の音楽」(佐藤泰平著)99Pより
この楽譜集に「Flow Gently・・・」が収められていますが、実際にメロディーも聞いていたといわれています。
*別紙資料 参考その4
賢治にチェロを教えた大津さんは、戦後1952(昭和27)年、雑誌『音楽之友』1月号に『私の生徒 宮沢賢治 ― 三日間セロを教えた話 ―』という手記を発表しています。
ある日、大津さんは、当時、自分達が稽古場で借りていたビルのオーナー塚本氏に呼びとめられて、こんな相談を受けます。
「『三日間でセロの手ほどきをして貰いたいと云う人が来ているが、どの先生もとても出来ない相談だと云って、とりあってくれない。
岩手県の農学校の先生とかで、とても真面目そうな青年ですがね。無理なことだと云っても中々熱心で、しまいには楽器の持ち方だけでもよいと云うのですよ。何とか三日間だけ見てあげて下さいよ。』と口説かれた。…(中略)二人の相談で出来上がったレッスンの予定は、毎朝6時半から8時半までの2時間ずつ計6時間と云う型破りであった。…(中略)
三日目には、それでも30分早くやめて、たった3日間の師弟ではあったが、お別れの茶話会をやった。その時初めて、どうしてこんな無理なことを思い立ったか、と訊ねたら『エスペラントの詩を書きたいので、朗誦伴奏にと思ってオルガンを自習しましたが、どうもオルガンよりセロの方がよいように思いますので…』との事だった。 『チェロと宮澤賢治』横田庄一郎(岩波書店)
*別紙資料 参考その5
論証:セロ弾きのゴーシュの「愉快な馬車屋」はODJBの「Livery Stable Blues」
宮沢賢治は「世界初のジャズレコード」を聴いた
2019.09.24 Tuesday 中山智広 ブログ「仙台発JAZZ行き5分遅れ」より