「ラグタイム」とドビュッシー、ストラヴィンスキーそして賢治

ラグタイム」とドビュッシーストラヴィンスキーそして賢治

 

 米国の黒人音楽のルーツとして、シンコペーションの特徴的なリズムを持つジャズの前身の一つと言われている「ラグタイム」は、19世紀後半に、♪エンターティナーで知られるスコット・ジョプリンなどによって作曲され一大ブームとなりました。

その「ラグタイム」が「ラッグ」という言葉で賢治作品に登場します。

1923年の『春と修羅』の中の一篇「火薬と紙幣」です。

 

           萓の穂は赤くならび

   雲はカシユガル産の苹果の果肉よりもつめたい

   鳥は一ぺんに飛びあがつて

   ラツグの音譜をばら撒きだ・・・・・

 

  同じ時期に書かれたといわれている「ポランの広場」には、その冒頭のト書きに「Hacienda.The Society Tangoのレコードをかける」とありますが、このタンゴ曲が収められたSPレコード盤のもう片面に「Desecration Rag」(「冒涜のラグ」=クラシックのピアノ小品曲のメドレーをラグタイム風に弾いている)というラグタイム曲が収められています。賢治はこのSPレコード盤を聴いていたことからも「ラグタイム」を知っており、「火薬と紙幣」の中にその言葉“Rag”を取り入れました。

 この後、賢治作品の中に、前出の「ポランの広場」にはシカゴ・ベンソン・オーケストラの「The Cat’s Whiskers」というディキシーランド・ジャズ曲、『春と修羅』の中の「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」、「ジャズ夏のはなしです」、それから 『セロ弾きのゴーシュ』に出てくるゴーシュのセリフ “なんだ愉快な馬車屋ってジャズか。” といった具合にジャズという言葉が出てきます。*「愉快な馬車屋」というジャズは、1917年に全米で大ヒットしたオリジナル・ディキシーランド・ジャズバンドの「Livery Stable Blues(後の邦題「馬車屋のブルース)」ではないかとは筆者の見解。

 

 それでは賢治はどんな経緯でこの「ラグタイム」を知ったのでしょう。

調べていくうちにわかったことに、賢治が聴いていたドビュッシーストラヴィンスキーの作品に「ラグタイム」作品があることです。

賢治が聴いたとされているドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」、「夜想曲(Nocturnes)」、交響詩「海」といった曲が作曲されたのは1890年から1909年頃で、賢治が中学に入学する前の時代です。また、ストラヴィンスキーの「火の鳥」も聴いていますが1910年の作品です。

いずれも賢治が聴いたのは、レコードに深く興味を示しはじめた1921年(大正10年)に稗貫農学校の教師になった頃からです。

 ドビュッシーの代表作のもう一つ、1906年の「子供の領分」には、賢治が聴いたという記録は見つからないものの、その中の1曲に「ゴリウォーグのケークウォーク (Golliwogg's Cake-Walk)」、そして1909年の「小さな黒人 (Le petit Nègre)」と言った具合にラグタイムを意識した曲がありジャズの先駆けの曲とも言われています。

 一方、ストラヴィンスキーは1910年の「火の鳥」、11年の「ペトルーシュカ」、13年「春の祭典」というバレエ三部作が有名ですが、1917年から1918年にかけて作曲した楽曲 に『11楽器のためのラグタイム』(仏: Ragtime pour onze instruments)通称『ラグタイム』があります。また、1919年のピアノ曲『ピアノ・ラグ・ミュージック』(Piano-Rag-Music)というのもあります。ストラヴィンスキーはこの時期、タンゴをはじめ世界の民衆音楽にも目を向け聴いていたともいわれています。

賢治作品「ポランの広場」に、前記のタンゴをはじめジャズや英米のホームソングも出てくることからもドビュッシーストラヴィンスキー、二人の作曲家の創作の脈略から何らかの影響を受けていたのではないだろうかと考えられます。

*SP盤で現存するストラヴィンスキーラグタイム」、演奏マルセル・メイエール(ピアノ)1925年録音。フランス"Gramophone" W727(12インチ)盤。片面はアルベニス「ナヴァーラ」

 

 余談ですが、ドビュッシーストラヴィンスキーが与えたジャズへの影響はさまざまで、例えば、天才トランぺッター、ビックス・バイダ―ベック1927年のピアノ曲 『In a Mist』は、ドビュッシーラヴェルレスピーギなどのクラシックの印象派の音楽とジャズのシンコペーションを融合したものと言われています。また、マイルス・デイヴィスの自作曲「So What」は、マイルスの朋友ギル・エヴァンスによると、ドビュッシー前奏曲集第1巻に収録されているヴェールVoilesを下敷きにして作曲されたともいわれています。

また、1910年後半から20年代にかけてのストラヴィンスキーラグタイムに向けられた関心は、後の1940年代には、その当時に演奏されていた実際のジャズのスタイルに向けられ、その影響による作品がいくつか書かれています。

ジョージ・ガーシュイン1924年の 「ラプソディ・イン・ブルー」(Rhapsody in Blue)は、逆なアプローチとして黒人音楽のジャズとクラシックを融合させ「シンフォニック・ジャズ」の代表的な成功例として世界的に評価されました。その後の作品 「パリのアメリカ人」(An American in Paris、1928年)もよく知られていますが、ジョージ・ガーシュインオーケストレーションを学びたいがためにストラヴィンスキーラヴェルの元を訪れたといわれています。このガーシュインの曲が賢治の耳に届くにはもう少し時間が必要だったようです。