「賢治のトランク」

『賢治のトランク』という版画・画集に出合った。

 

 ある日、仙台駅に近い知人の歯科医のビルが新築完成したと聞いてささやかなお祝いを持参して訪ねた。歯科医は一枚の版画が収められた額を持ち出してきた。秋田の叔父宅から頂いてきたというこの版画の絵にはコントラバスを提げたジャズマンが描かれていた。なかなか雰囲気のある好みのタッチの絵だ。

 説明によるとこの版画の作者は、盛岡在住の大場冨生さんで私と同じ団塊の世代の終わりごろの年齢だという。彼がテーマとして描いているのは何と「宮沢賢治とジャズ」だと聞いて”えッ”と驚いた。「賢治とジャズ」といえば私の研究テーマではないか。気になり調べてみると、1996年に上梓した『賢治のトランク』という版画集もあることを知り早速手に入れた。この本のタイトル『賢治のトランク』は、賢治の実弟宮沢清六著『兄のトランク』から拝借したのは明白である。

 賢治は1921(大正10)年25歳の時、突然思いたって家を飛び出し上京した。法華経国柱会本部を訪ね、街頭布教や奉仕をしながら創作活動し、たくさんの童話の草稿が書かれた。妹トシの喀血の知らせを受け帰宅したときに持ち帰ったのがそれらの童話原稿がいっぱい詰まった大型のトランクだった。宮沢童話の多くは、このとき草案が書かれ、構想ができたといわれている。

 このトランクとは違うが、賢治は1928年の上京時に神田「日活館」で田中豊明が指揮し日活管弦楽団が演奏する和洋合奏「謎のトランク」という曲を聴いている。レコード付帯の解説によると、「一臺の自動車が遥か彼方から爆音勇ましく到着する。トランクが開かれると先ずおなじみのキャラバン、續いて深川踊り・・・」といった具合に当時流行っていたジャズソング「キャラバン」(エリントンのあれではない)などと金毘羅船船などのご当地ソングがメドレーで演奏される。もちろん賢治はこの5年以上前からすでに本場もののジャズを知っていたが、日本ではちょうど「ジャズ」という言葉が一般的になってきたころだ。この「謎のトランク」を聴いた時に書かれた「神田の夜」とう詩がある。ジャック・ケルアックを思わせるビートニクな詩だと私は解釈している(余談だが賢治の『春と修羅』は萩原朔太郎の「月に吠える」から着想を得たともいわれている)。『セロ弾きのゴーシュ』の中では、ゴーシュはやってきた狸の子とセロと小太鼓のセッションをやらせている。賢治は1933年には亡くなってしまうが、その頃には遠く日付変更線を超えて聞こえてくるベン・ウェブスターレスター・ヤングチャーリー・パーカーなどによってカンザスシティで開花した「ジャム・セッション文化をもう感知していたに違いない。

 大場冨生氏の一枚の版画の中の「ジャズマン」「賢治とジャズ」から浮かんできたことを思いのままに・・・。