主よみもとに近づかん Nearer My God to Thee 

戯曲「ポランの広場」にこんな場面があります。

 

牧者(一歩出る)

    「レディスアン、ゼントルメン、わたくしが一つ唄ひます。えゝと楽長さん。

          フローゼントリーのふしを一つねがひませんかな。」

指揮者 「フローゼントリーなんてそんな古くさいもの知りませんな。」

楽手たち「そんなもの古くさいな。」

 

 登場する「フローゼントリー」という曲は、原曲が「Flow Gently, Sweet

 Afton」というスコットランドの曲で、詞はAuld Lang Syne(日本名は「蛍の

光」)の作詞者ロバート・バーンズによるものですが、それを賢治は日本語の詞に

置き換えて「けさの六時ころ」(牧者の歌)として歌わせています。

 

 弟の清六さんの話として、この曲が載っている「オリバー・ディトソンの『ホーム

ソング』という曲集が確かに家にあったと証言しています。曲集とは 『HOME SONGS』 for Mixed Voice, (Oliver Ditson Company)という128頁の曲集で1906年に出版されています。

 

 私が「賢治と音楽」について興味を持ち始めて最初に探したのがこの本でした。探し当てた時の喜びは今でも忘れられません。その36頁に確かにこの「Flow Gently, Sweet Afton」が載っています。

 数日前、必要があってこの本を取り出そうと探したのだが見当たりません。3日間何度も同じところを細かく細かく探しました。嫌な予感が。以前大事な冊子が間違って机からゴミ箱に落ちたのを気づかずゴミ収集車へ(多分?)。4日目の早朝、まさかこんなところにと思ったところで発見し胸を撫で下ろしました。

さりげなく頁をめくっていると見たことのあるような英字のタイトルが目に留まりました。

NEARER, MY GOD, TO THEE

えっ!と驚いた。賢治に係る他の曲が入っていないか何度か見たはずだったのに。

 

春と修羅 第二集』の「四〇九 〔今日もまたしょうがないな〕」1925/01/25

に登場する曲です。

 

(抜粋) 正門ぎはのアカシヤ列は

   茶いろな莢をたくさんつけて

   蜃気楼そっくり

   脚をぼんやり生えてゐる

   さうだからといって……

   なんだい泉沢なんどが

   正門の前を通りながら

   先生さよならなんといふ

   いったい霧の中からは

   こっちが見えるわけなのか

   さよならなんていはれると

   まるでわれわれ職員が

   タイタニックの甲板で

   Nearer my God か何かうたふ

   悲壮な船客まがひである・・・・・

 

 そうです。「タイタニック号」沈没の際、甲板で歌われたと言い伝えのある賛美歌です。

 賢治はこの詩を書いたひと月前の年の暮れ、歳上ながら親しい付き合いがあったクリスチャンの斎藤宗次郎から、内村鑑三の講演で「タイタニック号沈没時の犠牲」の話として聴いたという記録があります。このシーンは後の『銀河鉄道の夜』の中で、男の子と女の子を連れた青年が列車内にワープして登場するシーンとしても描かれています。

 

主よみもとに近づかん Nearer My God to Thee 

歌 シューマン・ハインク Victrola 87280 片面盤 1910年代

 

やはり宮沢家にこの本があったのだな・・・とあらためて。

紛失!と冷や汗をかいたことが思わぬ発見を引き起こしてくれました。

宮沢賢治と音楽・センダードムジカ vol.1 開催

宮沢賢治と音楽・センダードムジカ」のタイトルで、私がナビゲートする「賢治と音楽」に様々な音(音楽)とコラボするシリーズです。3か月に一度開催を予定しています。今回は、「ポランの広場」に登場する牧者の歌(原曲がスコットランドの歌 Flow Gently,Sweet Afton)にちなんで愛蘭月光楽団のケルト音楽とコラボしてお送りします。参加をお待ちしております。

宮沢賢治とウィリアム・モリスの思想に類似するコミュニタリアリズム(共同体主義)を唱えてきた大内秀明さんが1月9日死去、91歳。

 東北大学名誉教授の大内さんの専門は日本経済論。マルクス経済学や社会民主主義の論客として資本主義社会の大量生産や大量消費を批判してきた。大内さんのこういった論点が宮沢賢治の「農業芸術概論綱要」や英国の思想家ウィリアム・モリスに共通していることは以前から薄ら薄らと感じてはいた。2022年9月発刊の著書『甦るマルクス 「晩期マルクス」とコミュニタリアリズム、そして宮沢賢治』(社会評論社)では、補論「東北・土に生きるコミュニタリアン宮沢賢治」として本紙の四分の一を割いて論じている。コミュニタリアリズム(共同体主義)の考えは、賢治の「ポラーノの広場」がテーマとして掲げている「産業組合」を作るという構想そのものでもある。

 

・・・とうとうファゼーロたちは立派な一つの産業組合を作り、ハムや皮類と酢酸とオートミールはモリ―オの市やセンダードの市はもちろん広くどこへも出るようになりました。------『ポラーノの広場

 

『いまやわれらは新たに正しき道を行き

われらの美をば創らねばならぬ

芸術をもてあの灰色の労働を燃やせ

ここにはわれら不断の潔く楽しい創造がある

都人よ 来たってわれらに交れ

世界よ 他意なきわれらを容れよ』------ 宮沢賢治「農民芸術概論綱要」

 

『芸術の回復は、労働に於ける悦びの回復でなければならぬ』 ------ W.モリス

 

 大内さんは2005年11月、自らの理想卿を仙台市・作並の奥深い森に賢治とモリスの思想を託して「賢治とモリスの館」を開館(現在閉館)させた。また2013年には有志が運営委員になり、仙台市内のオフィスに、「仙台・羅須地人協会」をスタートさせ定期的にセミナーを開催し啓蒙活動に取り組んできた。

 そして昨年9月には「宮沢賢治賞奨励賞」を受賞。直接の受賞対象作品は、著書『甦るマルクス-「晩期マルクス」とコミュニタリアニズム、そして宮澤賢治』だが、選考理由として、「大内氏はこれらの基盤にある共同体思想が晩期マルクスと共通するものであることを指摘し、さらにそれは現代資本主義社会の問題やコロナ危機を乗り越える方途ともなる可能性を示唆している。」と記されている。

受賞にあたって大内さんは「奨励賞だからもっとこれからも励みなさいということですね」と語ったそうだ。

 どんなイデオロギーも年を重ねると時代に合わない点が生じてくるのは当たり前である。現体制のさびたルールは素直に受け止め修正すべきである。大内さんが唱えるコミュニタリアリズム(共同体主義)はこれからの時代に新たな指針を与えてくれると私は思う。ご冥福をお祈りするとともに大内さんの論点を継承していきたい。

 

甦るマルクス 「晩期マルクス」とコミュニタリアニズム、そして宮澤賢治 (だるま舎叢書)

『甦るマルクス 「晩期マルクス」とコミュニタリアリズム、そして宮沢賢治』(社会評論社

盛岡高等農林で過ごした日々こそが、後の賢治の感性を開化させる素地を育んだ。

  10月7日(土)、光栄なことに賢治の母校である盛岡高等農林(現・岩手大学農業教育資料館)の由緒ある建物の講堂において「蓄音機で聴く宮沢賢治と音楽」と題した講演を仰せつかった。

 盛岡高等農林時代の賢治と音楽との結びつきについて、賢治がSPレコードの虜になったのは卒業後のこともありあまり深く調べる対象としてこなかった。しかし、この講演を機によくよく調べているうちに、音楽を含め賢治のその後の生き方を大きく左右する日々を過ごしていたことに気づいた。

 その一つとして、在学中の2年余りの間、交遊が深かった高橋秀松の存在が大きいことに改めて認識した。講演のレジュメに以下のように書いた。

 高橋秀松、1894年5月7日生まれ。 賢治の二つ上で宮城県亘理の豪農「亘理屋」の長男として生まれる。(名取郡増田町

1912(明治45)年 宮城県立農学校卒(現宮城農高)農学科卒、続いて同校助手となるが、3年後の1915(大正4)年4月、賢治も同年入学した盛岡高等農林学校農学科に入学。

 校則により全員寄宿舎生活を送るが、賢治と同室、二人の布団は隣り合わせだった。

賢治は、ここ盛岡では中学時代も過ごしていることから先輩格。入舎最初の土曜日に盛岡案内として田中の地蔵、不来方城址を、次の時には高松の池、天神山などを案内し詳しく説明した。

 二人の親密度は日ごとに増し、土曜、日曜と暇さえあれば連れだって盛岡付近の山野を歩いた。夏休みの岩手山登りでは、賢治はハンマー、コンパス、地図や星座表などを、秀松は植物採集ドーランを携行、途すがら、路傍に腰をおろし手帳にはしり、森羅万象のこと、詩のこと、歌のこと、農民のこと、作柄のことなどあれこれを、時の移りが惜しまれるほど語らい、二人の青春を熱く燃やした。農家で生まれ育ち、すでに農業教育助手の経験も持っていた秀松は学ぶべき兄であり農業の先達でもあった。

 また、当時日本女子大に入学していた賢治の妹トシからは、週に一度必ず消息を知らせる手紙が賢治のもとに届いたが、賢治はその度ごとに秀松の面前でこれを開封、二人でおたがいに読みあった。そしてこの三人の交友関係を「バアバンクス ブラザア」と呼んでいた。

*バアバンクスとはルーサー・バーバンクス(1849-1926)のこと。米国マサチューセッツ生まれの園芸改良家。リンゴ、サクランボ、モモ、ブドウなどの優良品種の育成や交配種などを作り出し功績を残した。 

財)宮沢賢治記念館会報イーハトブ短信第30号 1999年3月 より要約

 

 トシを伴った三人兄弟はある日のこと、盛岡教会にタッピング牧師を訪ねた。賢治は妹を秀松のもとにと思っていたが、秀松はここでオルガンを弾いていた一人の娘と出会うことになった。彼女は横浜フェリス女学院卒業の才女。1893(明治26)年京都の生まれ、世に金のわらじをはいてでもさがせといわれる年上の人、後の秀松夫人(睦)である。

           佐藤成 「バアバンクス ブラザア」(賢治と秀松) 

 

「(農林学校)一年の二学期だったか、宮沢君に誘われてタッピング牧師がやっていたバイブル講義を聴きに行った。週一回の講義だったが、彼は英語がうまく、英語と日本語半々と話し、タッピング氏によくほめられていた。英語のマスターとキリスト教への関心が彼の目的だったように思う。」

 同級生(秀松)の証言 (『啄木・賢治・光太郎 二〇一人の証言』 読売新聞社盛岡支局)

 

 盛岡高農時代の賢治について、同人誌「アザリア」創刊の仲間として保坂嘉内との友情だけを取り上げることが多いが、バアバンクス ブラザアこと高橋秀松との親しい交遊は、その後の農業貢献の夢を醸成し、「羅須地人協会」活動の源泉となっていった。

後に秀松は、1918 年 盛岡高等農林学校農を卒業。茨城県立農業教育養成所兼農学校の教諭になる。 1920年 京都帝国大学経済学科選科に入学。 1923 年卒業。安田保善社を経て,安田銀行に勤務。 1944 年 名取に帰郷。 1947 年 増田町農業共済組合(後の増田町農 業協同組合)の初代組合長に就任。 1956 年 名取町長に就任。 1958 年 名取市長(初代)に就任。63 年,2 代目 市長に。 1975 年 12 月 17 日,死去。享年 82 歳(数え年)

レジュメでの紹介は以上である。

 

 ほかにも、音楽のみならず芸術の分野で影響を受けた一人に盛岡高等農林学校在学中の恩師・玉置邁(1880‐1963)がいる。

 玉置邁は三重県の出身で、明治40年東京帝大文学哲学科中美学を専攻、同年11月6日盛岡高農講師として迎えられ以来28年間定職し、盛岡に音楽、美術其の他すべからず文化を注入した人物でもある。講師から大正元年8月には教授となり、教鞭の傍ら『岩手日報新聞』にしばしば寄稿し、芸術全般にわたって一般読者の啓蒙に力を注ぐ。賢治は盛岡高農での大正4年から7年までの間、そして卒業以降も生涯を通じて敬愛し続けた一人として哲学・美学が専門の玉置から受けた感化の大きさは計り知れない。

 

大正6年4月 賢治がこんな俳句を詠んだでいる。

―  ひしげたる ラッパの前に首ふりて レコードを聴く 幹事の教授  ― 

                     【新】校本宮澤賢治全集 第一巻より

 

 賢治はこのころはそれほど蓄音機に興味を示していなかったようだ。

賢治は、卒業後も年に何回か玉置宅に遊びに行き話し込んでいたらしい。昭和6年の暮れには、お歳暮代わりにといってストラビンスキーの「火の鳥」のレコードを持参した。

火の鳥」  L'Oiseau de Feu ( Fire‐Bird ) ストラビンスキー作曲、演奏はOsker Fried  w/ Berlin Philharmonic Orch. Polydor 45009‐A   1928年発売

 賢治が当時最先端のクラシック音楽家ストラビンスキーのレコードを選んで贈ったあたりは玉置邁教授はその相手としてふさわしかったからだろう。

 

また、賢治の1933(昭和8)年8月のメモ書き「西洋音楽の家元」というのがあるが、家元とは誰がモデルか?というと、冒頭の件にはこうある。    

 

明治四十年  先生二十才赴任

明治四十五年 大正元年

       作曲、守もせむるも風ふけて、

       校歌 旅音楽家来れば追い返す 蓄音機入り来る          

       初めは浪花ぶしやがて洋楽来る先生のぼせる

            ピアノのできる生徒来る先生演奏会に空手でひくレコードにも空手でひく

       ある朝ドラソッソソ ソミレド ドラソッソソ ソミレドとキンキン

       やられ先生ぼうとなる

 

 前述の履歴にも「明治40年11月6日盛岡高農講師として迎えられ以来28年間定職」とあることからもこの「西洋音楽の家元」とは玉置邁にほかならない。

 

 賢治が青春時代に過ごした盛岡高等農林での様々な出会い、高橋秀松との交流、玉置邁教授、関豊太郎から鉱物や土壌について学んだこと、もちろん「アザリア」創刊など、卒業後の賢治の取り組み、音楽も含め全てに大きな影響をもたらしていたことを再確認することができた。

お墓参りで新たな発見!賢治を看取った草刈兵衛医師

 私の義父はクリスチャンでしたのが、お墓は仙台市北山の輪王寺のクリスチャン墓地にある。この墓地には東北学院歴代の宣教師や義父の仙台ホサナ教会などのお墓が並ぶ。私はクリスチャンではないが、命日、お彼岸やお盆(キリスト教なのに?)になど年数回は訪れる。なのにこの夏の墓参では不思議なことが起こった。

 お祈りをして振り向いたところのあったお墓の背面に目が留まった。なんと「草刈兵衛 昭和二十二年四月八日 五十七才」と刻まれている。びっくり!

 仙山線東照宮踏切のところにある「草刈内科」の現先生の祖父である草刈兵衛医師は花巻病院に勤務し、宮沢賢治の主治医として賢治を看取った先生であることを突き止めたのは2年前の11月だった。(「賢治の主治医 草刈兵衛博士」同ブログ2021・11・23)。

 この事でさえ奇遇な出来事だったのに、こんどはそのお墓が隣近所だったなんて・・・・・。そういえば草刈兵衛医師は真面目なクリスチャンだったことが書かれていたのを想い出した。

 賢治についていろいろと調べていると、どこかで私と賢治と繋がっている事柄に出くわす。

 賢治は生涯法華経信者だったことは間違いないが、童話「銀河鉄道の夜」はじめ作品のいろいろな場面に「キリスト教的要素」が描かれていることから、最近彼とキリスト教にまつわるエピソードをいろいろと調べている。

 「羅須地人協会」時代に賢治を困らせた?高瀬露(旧姓小笠原)という女性がいた。彼女は賢治の妹トシの花巻高等女学校の3年後輩で卒業後、黒沢尻尋常高等小学校(現北上市立黒沢尻西小学校)の代用教員としてその後59歳になるまで教師生活を務めあげたクリスチャンであった。なんと黒沢尻西小学校は私の母校である。「銀河鉄道の夜」など賢治作品に登場する賛美歌はこの露から教わったということになっている。(賢治と露については話すと長いので別な機会に)

 もう一つ、賢治が臥せていた1932年に「女性岩手」という本が出版された。創刊にあたって賢治作品の掲載を強く望み、七月号には口語詩「花鳥図譜・七月」が掲載され、以後賢治が亡くなるまでに数編が掲載された。この本の創刊者は多田ヤスといい生まれは東和町晴山というところ。

草刈兵衛医師のお墓(輪王寺


賢治の妹トシ花巻高等女学校時代の大の仲良しだった。トシが級長、ヤスが副級長、トシは主席でヤスは二番、トシはバイオリンを弾き、ヤスは声楽をといった具合だった。ヤスは卒業して二年後結婚するが、その嫁ぎ先がなんとわたしの生まれ育った北上の裕福な馬喰だという。彼女もクリスチャンだった。(この多田ヤスさんにまつわる話も長いのでまた。ヤスという名前が何か匂うな・・・)

 母校、故郷北上が遠巻きながら賢治の生きた時代と繋がっていたことを発見し嬉しくなる。

 こんなことを調べ、何とかこの暑さを凌いでいる。

  お知らせ (チラシ詳細)

 賢治の母校「盛岡高等農林学校」(現岩手大学農学部)の当時の本館だった岩手大学農学部付属農業教育資料館において、特別企画「蓄音機で聴く宮澤賢治と音楽」が開催されることになりました。大変光栄なことで今から緊張しております。

 会期は10月7日とまだ少し先ですが、先着50名で既に受付が始まっております。是非皆さんのお知り合いの方にもご案内ください。

 

 

書籍「宮沢賢治78回転からの着想」に添付された「113曲収録のMP3音源DVDメディア版」を単独発売。

書籍「宮沢賢治78回転からの着想」に添付された「113曲収録のMP3音源DVDメディア版」を音源のみ仕様にしたものが出来上がりました。¥2,400(税別)で販売しております。

 書籍「宮沢賢治78回転からの着想」では,宮沢賢治に係るSPレコードを時系列でエピソードを交えながら紹介したもので、参考音源として113曲収録のMP3音源DVDメディアを添付しました。現在書籍は絶版としております。そのため、音源だけでも欲しいという要望に応えたのがこの「DVDトールケース版」です。MP3音源DVDメディアですので、CDプレイヤーでは再生できませんが音源資料として役立てられれば幸いです。

 なお、今までリリースされている「SPレコードからの復刻録音で聴く」5枚のCDには総計73曲が収められていますが、この「113曲収録のMP3音源DVDメディア版」と重複する曲・バージョンは49曲です。

 販売は直販のみとしておりますので、ご希望の方は直接お申し出ください。

  メール jmb@kih.biglobe.ne.jp     022-398-6088