雨ニモマケズ  谷川 徹三 ( 詩人.谷川俊太郎の父、ピアニスト.谷川賢作の祖父 )

 

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雨ニモマケズ 谷川徹三

雨ニモマケズ   谷川 徹三

 

雨ニモマケズ  谷川 徹三 生活社刊 昭和二十年六月二十日発行

                   昭和廿年八月廿日再販発行 六十銭 二萬部

 

 著者略歴 大正十一年京都帝大哲學科卒 昭和三年以来法政大學文学部教授として今日に至る、その間文部省専門委員、大政翼賛会調査委員等。主要著書、感傷と反省(岩波) 生活・哲學・藝術(岩波)、内部と外部(小山) 展望(三笠) 日本人のこころ(岩波) 東洋と西洋(岩波) 續東洋と西洋(近藤) 私は思う(中央公論社 三笠) 心の世界(創元社) 藝術小論集(生活社) 主要譯書、ゲーテ藝術論集(改造社ゲーテ全集)

 

 谷川徹三は、詩人谷川俊太郎の父、ピアニスト谷川賢作の祖父に当たる。上記は本の記載から拾ったもの。発行日が昭和20年6月20日、終戦間近であることに注目したい。その8月20日には再発行されている。31頁の冊子で、発売当初は50銭だったようだ。終戦を迎えようとしていた時期、どのような状況下であったか私には想像することが難しい。

 

 徹三はこのように太平洋戦争前から戦中にかけて賢治の研究・紹介を行っていて、この「雨にも負けず」をテーマとしてその描かれている内容を高く評価し、賢治の「偉人」としての評価の象徴を広く知らしめた。

文章内にはこんな件がある。

 明治以後われわれは幾多偉大な文學者達をもちました。併し、その人の墓の前に、本當にへりくだった心になって跪きたいという人を、私は賢治以外にもたないのであります。鴎外とか漱石とかいう人達は、文学者としても、人間としても、立派な人でありました。偉人と呼んでいい人でありました。 併し、私は鴎外の墓の前にも、漱石の墓の前にも、本當にへりくだった心をもって跪きたいとは考えません。併し、賢治の墓の前には私は跪きたい。

 

 そして、昭和二十三年(1948年)、徹三は、賢治が昭和6年春から技師として働き始めた岩手県一関市東山町の東北砕石工場近くの公園に賢治の詩碑を建立するという話を受けて、東北砕石工場技師時代に、火山性特有の酸性土壌の改良に石灰を利用して農産物の収穫を図りたいという強い意思が働き、その激務の為その年の秋に出張先の東京で倒れ、その後花巻で病床に伏すことになり、その年の11月に手帳に記されたのが「雨ニモマケズ」だった、といった諸々の思いを込めて自らが詩碑に筆字を刻んだ。その詩は賢治の「農民芸術概論綱要」の一節

まづもろともに
かがやく宇宙の微塵と
なりて
無方の空にちらばらう

 建立の年から70年経った2018年、長男の谷川俊太郎、孫の谷川賢作が参加し、賢作のピアノに合わせ俊太郎が詩を読むという「賢治とともに詩と音楽の世界へ」と銘打った記念事業が行われた。

 余談だが、碑文の揮毫は当初、高村光太郎氏にお願いしに行ったところ筋を通せと大喝され、宮沢清六氏に相談に行き谷川徹三氏を紹介されたということです。その後の徹三氏の揮毫ができるまでに1年程要したこと、出来てきた揮毫には宮沢賢治の名前も谷川徹三氏の書名もなく後日、「宮沢賢治記念のために 谷川徹三 書」と刻まれたそうです。