わんこそばの発祥は花巻? 驚いたのはそれだけではない。

 

先ごろの地元の新聞で、わんこそば「発祥は花巻」という記事が目に留まった。

 私は「わんこそばといえば盛岡」と思っていたので驚いた。それもその説を唱えているのは花巻在住の泉沢善雄さんだ。泉沢さんは知っている方だったのでなおさら驚いた。泉沢さんは私と同じように宮沢賢治研究、特に賢治と音楽について造詣が深く、賢治が聴いていたと同じSPレコードを集め、聴く会なども地元花巻で行っている。

 盛岡でのわんこそばの発祥は、大正時代の首相 原敬(盛岡出身)が墓参りに帰省した際に「そばは椀コに限る」と言ったことに由来するという。一方、花巻説は江戸時代前期の盛岡藩主・南部利直が花巻に寄った際、献上されたそばがおわんに盛られていたことに由来し、両市はお互いに「発祥」を譲らなかった。それを受けて、泉沢さんは店主らの聞き取りや郷土史などを調査した結果、明治時代に初めてわんこそばという名称で提供したのが花巻の「大畠家」だと突き止めた。一方、盛岡で広まったのは戦後、盛岡のそば屋が大畠家を参考にして始めたことがきっかけだったというのである。

ここでまた驚いた。

 大畠家は、なんと宮沢賢治の生家(豊沢町)の2軒先を右に曲がって数軒目左並びにある。それも、賢治が花巻農学校の教諭になった翌年、レコードコンサートで知り合い、相思相愛ながら賢治の止む無き理由で別れることになった大畠ヤスの家である。ヤスは当時花城小学校の先生で、学校勤務のかたわらよく店を手伝っていた。賢治との失恋の後、大迫出身でシカゴで旅館業を営んでいた及川末太郎に嫁ぎ、シカゴに渡り3年後に病気で亡くなっている。この当時(1923年頃)のシカゴは、ジャズの中心地であり、禁酒法アンタッチャブル」や「グレート・ギャツビー」の時代でもある。私の定説「賢治が本場のジャズを知っていた」、それは、この大畠ヤスとシカゴに起因するのではないか ?、という仮説を立てている自分にとって「大畠家」は「わんこそば」以上に大切な存在なのである。

この話は次回に回すとして、先日その「大畠家」でそばを食べてきた。

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 午後2時までのお昼の営業時間、ひっきりなしにお客さんだ入ったり出たり。花巻では定着した人気のある蕎麦屋さんのようだ。友人の情報ではざるソバが定番。1枚では少ないので2枚が普通というので440円のざるソバを2枚いただいた。更科系の細めのソバでおろし南蛮とネギがつく。

賢治が使った蓄音機について 其のⅡ

賢治が使った蓄音機について 其のⅡ

賢治が使っていた蓄音機について、私なりに検証してみると、

  1918(大正七)年ころの話として、「化粧品屋を営む義兄の岩田豊蔵が東京の仕入れ先から鷲印の100円もする蓄音機をもらい受け、レコードも仕入れ用として購入して帰った。これを聞かされたことが賢治がレコードにのめり込むきっかけだった」との記述が残っている。さらに蓄音機とレコードを借りて持ち帰り、体を動かし踊ったり、頭をラッパの中に入れるようにしたりと夢中だったと云うことですから、多分ニッポノホンの鷲印のラッパ付きタイプ(ニッポノホン35号)と思われます。(下)

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 賢治が稗貫農学校の先生になった翌年1922(大正十一)年になってから音楽鑑賞会を1週か2週に1回、放課後行いました。蓄音機は朝顔型のデカイ、ラッパのついた四角い箱で・・・( 『宮沢賢治の五十二箇月』―教師としての賢治像― 佐藤成著)とあることから、この頃はまだラッパ付きタイプのものと思われます。

 蓄音機の値段は、大正初期頃はビクターやコロムビア製は1,000円、廉価製品で200円~300円したようです。その後稗貫農学校の教員1921(大正十)年になってから翌年に、鍛治町の「高喜商店」で、ラッパを内蔵した箱型の高価な最新式の蓄音機を買ったという記述があります。「高喜商店」は、ポリドールのレコードとの関係が深いこともあるのでこの蓄音機はポリドール製の可能性大である。

 斎藤宗次郎の『二荊自叙伝』(岩波書店)の中の自身が描いた挿絵からヒントを得ると、一つは1924(大正十三)年8月26日「典雅、凡庸、虔粛多種多様の西村行き」の中で、農学校を訪れ賢治とレコードを聴いた時の話に添えられた挿絵。(下左)

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 それともう一つは、1926(大正十五)年3月24日に「ベートーヴェン百年祭レコードコンサート」を農学校で開催したときの挿絵がある。(上右)

 絵の中にある蓄音機はいずれも卓上型のもので、左のものは蓋がついていない。右もついていないように見えるが蓋が閉まっているのかもしれない(演奏中は蓋を閉めてと書いているものがある)。   

コンサートでの使用に耐えられるグレードを考えると、先にあげたラッパを内蔵した箱型ではないかと思われる

 賢治を扱ったドラマなどではPolydor Polyfar NO.35が出てくることがあるが、年代的にはまだ発売になっていない筈だが(1935年頃)。

Polydor 最高級卓上型蓄音機モデル200号(当時七拾五圓)の可能性が高いのでは。

 下写真、 Polydor Polyfar NO.35

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 羅須地人協会時代1926(大正十五)年以降、昭和に入ったころには比較的安くなり、1931(昭和六)年のカタログでは据置型のビクトローラで安いタイプ80円~高額品150円とある。1925年に開発・発売された名機ビクトローラ・クレデンザ(フロア据置型)は昭和初期(1926年以降)日本にも輸入されたが当時930円だったそうだ。

  羅須地人協会を設立した年の1926(大正十五)年12月、お金が入用になって居候していた千葉恭の話に、「この蓄音機を賣つて來て呉れないかと云はれました。その当時一寸その辺に見られない大きな機械で・・・それを橇(そり)に積んで上町に出かけました。」とある。ところが売りに行った本人千葉恭の供述があいまいで、ある時の話では岩田屋は650円で売ったものをそのままの値段650円で買ってくれたとあります。また別の時の話では、十字屋では250円の値が付いたとあります。定価の半額で買い取ってくれたとしても売価は500円ほど。とすると、どちらにしてもやはり500円前後の製品であったと推測できる。この価格とオルガンほどの大きさだったという話も合わせて推測すると、ビクトローラのクレデンザが発売になる前のビクトローラ・フロア据置タイプではないだろうか。それもオルガンほどの大きさとなると横型の据置タイプVictrola 4-40 、当時635円(1920年代)が考えられる。72枚のレコードを収納できるそうだ。                                     

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 この機種だとすれば、十字屋で635円のものを中古品として250円で買ってくれたのかもしれない。羅須地人協会の 「二階は八疊位の大きな室で、奥の方につくえと本が一杯あり、その脇に蓄音機が置いてあつた、この蓄音機も一般のものと違い大きな型のものであつた」。

 この文にはレコードが置いてあったスペースについて何も触れていないことからも、蓄音機内に収納できるこのタイプではないかと推測できる。

 このほかにも、盛岡の村定楽器店で購入したものと思われる「村定」のラベルのついた蓄音機を教え子の結婚祝いに贈ったという記述もあるようですから、いろいろ錯誤しながら蓄音機を買っていたと思われる。

 1930年以降病気で臥せるようになると、「病勢も進むにつれて強い音が苦痛になったので、静かな曲を選んで、蓄音機の扉を閉めて鳴らすようにしたが、後にそれでも強すぎるので、ラッパに毛布をつめて蚊の鳴くような音でかけなければならなかった。」『兄のトランク』「兄とレコード」(宮沢清六著 ちくま文庫)  

 この記述の「ラッパに毛布をつめて」とあるラッパとは、箱型で前面に扉が開閉式になっていて、その奥にラッパが内蔵されているもので、扉の開閉で音量調整ができるのだが、それでも音が大きいのでそのラツパに毛布をつめたということだと思われる。     

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 実際どんな蓄音機を使っていたかについて、清六さんご存命の時に詳しく伺って記録に残した方が居たなら、と悔やまれる。

 

賢治が使った蓄音機について 其のⅠ

賢治が使った蓄音機について 其のⅠ

羅須地人協会で生活を共にした鈴木恭の証言 

鈴木守著「みちのくの山野草」によると、当時使用していた蓄音機について以下の二つのエピソードがある。同じ鈴木恭の証言だがやや異なっている。

(一)

 金がなくなり、賢治に言いつかつて蓄音器を十字屋(花巻)に売りに出かけたこともあつた。賢治は「百円か九十円位で売つてくればよい。それ以上に売つて来たら、それは君に上げよう」と言うのであつたが、十字屋では二百五十円に買つてくれ、私は金をそのまま賢治の前に出した。賢治はそれから九十円だけとり、あとは約束だからと言つて私に寄こした。それは先生が取られた額のあらかた倍もの金額だつたし、頂くわけには勿論ゆかず、そのまま十字屋に返して来た。蓄音器は立派なもので、オルガンくらいの大きさがあつたでしよう。今で言えば電蓄位の大きさのものだつた。

  この講演内容は昭和29年12月21日の「賢治の会」例会で行われたものである。

  次にあげる(二)は、千葉恭自身が別なところで語っている内容で(一)とはやや異なっている。

(二)

 蓄音機で思ひ出しましたが、雪の降つた冬の生活が苦しくなつて私に「この蓄音機を賣つて來て呉れないか」と云はれました。その当時一寸その辺に見られない大きな機械で、花巻の岩田屋から買つた大切なものでありました。「これを賣らずに済む方法はないでせうか」と先生に申しましたら「いや金がない場合は農民もかくばかりでせう」と、言はれますので雪の降る寒い日、それを橇に積んで上町に出かけました。「三百五十円までなら賣つて差支ない。それ以上の場合はあなたに上げますから」と、言はれましたが、どこに賣れとも言はれないのですが、兎に角どこかで買つて呉れるでせうと、町のやがら(筆者註:「家の構え」の意の方言)を見ながらブラリブラリしてゐるとふと思い浮かんだのが、先生は岩田屋から購めたので、若しかしたら岩田屋で買つて呉れるかも知れない……といふことでした。「蓄音機買つて呉れませんか」私は思ひきつてかう言ひますと、岩田屋の主人はぢつとそれを見てゐましたが「先生のものですな―それは買ひませう」と言はれましたので蓄音機を橇から下ろして、店先に置いているうちに、主人は金を持つて出て來たのでした。「先に賣つた時は六百五十円だつたからこれだけあげませう」と、六百五十円を私の手にわたして呉れたのでした。私は驚いた様にしてしてゐましら主人は「……先生は大切なものを賣るのだから相当苦しんでおいでゞせう…持つて行って下さい」静かに言ひ聞かせるように言はれたのでした。私は高く賣つた嬉しさと、そして先生に少しでも多くの金を渡すことが出來ると思つて、先生の嬉しい顔を思ひ浮かべながら急いで歸りました。「先生高く賣れましたよ」「いやどうもご苦労様!ありがたう」差し出した金を受け取つて勘定をしてゐましたが、先生は三百五十円だけを残して「これはあなたにやりますから」と渡されましたが、私は先の嬉しさは急に消えて、何だか恐ろしいかんじがしてしまひました。一銭でも多くの金を先生に渡して喜んで貰ふつもりのが、淋しい氣持とむしろ申し訳ない氣にもなりました。私はそのまゝその足で直ぐ町まで行つて、岩田屋の主人に余分を渡して歸つて來ました。三百五十円の金は東京に音楽の勉強に行く旅費であつたことがあとで判りました。岩田屋の主人はその点は良く知つていたはずか、返す金を驚きもしないで受け取つてくれました。

 東京から歸つた先生は蓄音機を買ひ戻しました。そしてベートーベンの名曲は夜の静かな室に聽くことが多くなつたのでした。

             <『四次元9号』(宮澤賢治友の会)>

◇二つのエピソードについて

 さて、千葉恭が蓄音機を売りに行ったという二つの似た様なエピソード、どちらの場合も下根子桜時代に別宅に置いてあった蓄音機を売りに行ったというものである。

 しかしこの二つのエピソードは、

・『イーハトーヴォ復刊5号』の場合

 100~90円位で売つてくればよいと賢治は言った。十字屋では250円で買ってくれた。

・「宮澤先生を追つて(四)」の場合

 350円までなら売ってよいと賢治は言った。岩田屋で650円で買ってくれた。

ということだから、経緯は同じ様だが、金額といい売った店といい全く違う。したがって考えられることは、

(ア)金額と店はそれぞれ千葉恭の記憶違いで1回きり。

(イ)同じ様なことが2回あった。

のどちらかであろう。

 そこで参考にしようと思って『岩手年鑑』(昭和13年発行、岩手日報社)の広告を見ていたならば、その中の広告欄にコロムビア蓄音機が45円~55円とあった。もし大正末期もこの程度の値段ならば当時の賢治の月給は百円前後だったはずだから、一ヶ月の給料で優に買うことは出来たであろう。なお、賢治の蓄音機は250円あるいは650円で買い上げてくれたということだからおそらくその金額はそれぞれの蓄音機の販売価格と推定出来る。したがって賢治が持っていた蓄音機は相当高額であったに違いない。

 実際、そのことを示唆しているのが前述したような

 「当時一寸その辺に見られない大きな機械」

という証言、また「賢治抄録」(『宮澤賢治研究』(草野心平編、筑摩書房)258p)に登場する

 「二階は八疊位の大きな室で、奥の方につくえと本が一杯あり、その脇に蓄音機が置いてあつた、この蓄音機も一般のものと違い大きな型のものであつた」

という証言である。売った蓄音機がこの蓄音機であれば相当高価なものであったことであろう。

 仮に250円の蓄音機の方だとしても月給の約2.5倍の、650円ならば優に6倍以上の額になる。

 

 以上、鈴木守著「みちのくの山野草」からの引用だが、さて、鈴木恭が売りに行った蓄音機はどんな蓄音機だったか?

賢治が使っていた蓄音機について、経緯に沿って証してみよう。 次回に続く

 

 

「宮沢賢治は本当にジャズを聴いていた。」と証言してくれたジャズ批評・瀬川昌久さんに哀悼!

新年あけましておめでとうございます。

 新しい年を迎えましたが、年末に訃報の記事に目が止まりました。

ミュージカルやジャズ音楽評論家の長老、瀬川昌久さんが暮れの29日肺炎で死去されました。97歳でした。ご冥福をお祈りいたします。

 瀬川さんと出会ったのは、5年ほど前、日本ルイ・アームストロング協会を通じてでした。私が制作した宮沢賢治が聴いたSPレコード復刻CD「ジャズ 夏のはなしです」を送って聴いていただいたのがきっかけでした。このCDには賢治が:聴いたと思われているシカゴ・ベンソン・オーケストラのThe Cats Whiskers が入っています。この曲は賢治作品「ポランの広場」の中で、山猫博士が楽団に向かって「おいおいそいつではなしにキャッツ ホヰスカー をやってもらいたいなあ。」として登場します。瀬川さんはこのCDを聴いて返事のお手紙をくださいました。その中で宮沢賢治は本当にジャズを聴いていた。」と証言してくださいました。

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 その後、一二度やり取りすることがありましたが、病気で臥せることが多くなり、公の席にもお顔を出すことも少なくなっておりました。

 50年代にはニューヨークに住まわれ、デューク・エリントンなど当時のジャズの現場を見てきた貴重な存在でもありました。残念です。

 私が今編纂中の文章の中に、瀬川さんの著書「ジャズで踊って 舶来音楽芸能史」から文章を引用させていただいております。感謝とともに改めてご冥福をお祈りいたします。

賢治の主治医 草刈兵衛博士

草刈兵衛博士

 

佐藤隆房著「宮沢賢治」より

 P275 ・・・先の主治医であった佐藤長松博士は、それから間のない十月初めに辞職することになり、十月十日からは新しく花巻(共立)病院に赴任した草刈兵衛博士が主治医となって須山さんと力を合わせて治療に当たることになりました。この草刈博士は敬虔なクリスチャンの優れた人格者でありまして・・・

 ここに登場する草刈兵衛博士は、上記のように昭和6年10月10日に賢治の主治医となり、昭和8年賢治が亡くなる前日9月20日に最終診断を下した方でもありますが、主治医になってから、俳句・連句を通じても賢治と交友があったとされています。

 さて、我が家から仙台駅に向かって徒歩15分、仙山線東照宮駅の並びに「草刈内科医院」があります。現院長は草刈拓先生で、先代の院長は父親の草刈兵一郎先生で私も多少面識のある方でしたが故人です。この兵一郎先生の「兵」と草刈兵衛の「兵」にピンときました。「草刈兵衛は現草刈拓先生の祖父ではないか?」 このことが頭から離れず、思い切って草刈内科医院を訪ね拓先生にお伺いしました。的中しました。自分の身近なところにこんな賢治にまつわる方が・・・。

 賢治と俳句仲間であったというから、ひょっとして賢治さんとの交友の古いメモでも残っているのでは? 

 歌壇・俳壇のことは詳しくないので、この件はあまり深入りすべきでないと思いつつ、やはり気になる性分、たしか拓先生は叔母か誰かに俳壇に関わる方がいるようなお話をしていた。気にかかっていた矢先に他から情報が入ってきた。その叔母は蓬田紀枝子さんという方で、俳句の世界ではよく知られている方だという。調べてみると、高齢ながら現役として活動していることや、北上市の現代詩歌文学館の評議員でもあったという。賢治と草刈兵衛との俳句繋がり、そして草刈家と縁のある蓬田紀枝子さんは俳人だとなると、何か匂ってくる。

 再度。拓先生に伺ってみることにした。蓬田紀枝子さんは、兵一郎先生の妹であり、ということは草刈兵衛の娘であるということがはっきりした。「身体は弱ってきたが頭脳明晰で元気で、近々会うことになっている。」というお話しをいただいた。

 

 蓬田紀枝子(1930年生まれ)さんは仙台にお住まいです。草刈拓院長のお計らいによって、電話でお話を伺うことが出来ました。

 ・・・私は仙台で生まれましたが、父・兵衛(医師)の仕事の都合でちょうど生後100日の日に青森に移りました。その時にすでに二人の姉と兄・兵一郎がおりました。その後、1931(昭和6)年に花巻に移りますが、当時の花巻病院の院長だった佐藤隆房著「宮沢賢治」(「隆房院長」を「りゅうぼういんちょう」と仰っておりました)によると、花巻病院に赴任したのは、1931(昭和6)年10月10日とあり、前任の佐藤長松博士の辞職を受け継ぎ、賢治さんの主治医になったとあります。

 私はまだ一歳半から三歳の頃で、あまりよく覚えていませんが、賢治さんがお亡くなりになるまでの凡そ二年の間で記憶に残っていることといえば、賢治さんの家は裕福でしたから、診察に行くときには必ずタクシーを迎えによこします。兄・兵一郎は四・五歳の頃で、運転手さんに「おめえも乗ってぐが」 といわれて宮沢家まで同乗し、帰りにはお菓子の包みをいただいて帰ってきたという話。それから、夜中に急な往診を受けたとき、母は私に「今からお父さんは、暗くて怖いところに行くんだよ」と話したことを覚えています。賢治さんの主治医となってからおよそ二年の間に、俳句仲間としてのお付き合いもあったようですが、このことに関することは何も残っていませんし、あまりよくわかりません。

 花巻では弟たちも生まれ、みんなで幼年時代を過ごした町で、私にとってふるさとのような思い出深い町です。

 蓬田さんはご高齢ですが、20分に及ぶ電話の声からは、かくしゃくとして聡明な様子がうかがえました。父の影響もあってか、俳壇で「駒草」の三代目主宰を継承、何冊もの句集を発刊し、俳人協会顧問、日本現代詩歌文学館評議員などを歴任されました。

 

 

ブラームス「眠りの精」と賢治の花束

ブラームス「眠りの精」 

  その年(昭和二年)の夏だったかも知れない。私達は小学校の同窓会の余興に出てはどうかと云う事になった。然し楽器では自信がないから声楽をやる事にした。先生は二枚のレコードを貸してくれた。一枚は十二吋盤で曲は忘れたが面倒だったので十吋の「眠りの精」という独逸語の合唱をやる事にして練習していた。・・・・

  伊藤克己「先生と私達」-羅須地人協会時代― 『宮澤賢治研究』草野心平編より

 

 当時、立松房子というソプラノ歌手が歌った「眠りの精」のレコード盤がある。生徒たちが小学校の同窓会で歌うために練習した「眠りの精」と何か関係がありそうなエピソードが、関登久也著『宮澤賢治素描』という本の中に載っている。

 関登久也(本名 関徳弥)は、賢治からすると従叔父(いとこおじ=父方祖母の腹違いの弟の息子)にあたり、年齢は賢治の3歳下で、生前の賢治を兄のように慕っていたといわれている。

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  花 束

 昭和二年頃でありましたか、東京から声楽の立松房子夫人が花巻に参りました。夫君の立松判事が職務上の事件から、世間的に問題を捲き起こし、たいへん同情されて居りました。随つて立松夫人の独唱会もそれらの原因もあつてか人気を呼び起し、当日の朝日座に於ける会は、大入でなかなかの盛会でした。その頃賢治は羅須地人協会を開設し、音楽に多大の関心を持つて居られましたので、オルガンやギターを買つて勉強してゐると云ふ話が私達の耳にも這入つて居りました。さて当夜の独唱会には私も参り、立松夫人の奇麗な、しかも精神的なソプラノに感激して耳を傾けて居りましたが、プログラムもだんだん終りに近づいた頃、可愛い尋常一年位の女の子が舞台に出て来て、手にあまる美しい花束を、立松夫人に渡しました。花束は実に水々しく真紅の花、淡紅色の花、それに白や水色など、或ひはほやほやした毛のアスパラガスなど交へたものでした。その少女は町の宮金といふ砂糖問屋の可愛い百合子さんといふ少女でした。立松夫人は夫君を助ける為に一人児を家に置いて、地方廻りの独唱会を開いてゐるといふことなど、大分人々の同情を買つてゐましたが、花束を捧げた少女と、立松夫人のとり合せは大変涙ぐましい情景で、しかも美しい大きな花束は一層、その場面の気分を引立たせたので、満堂は酔へるが如く拍手の嵐を送りました。その時あの花束は一体誰が送ったのだらうと考へてみましたが、少したつてそれは賢治が手作りの花を少女へ頼んで渡したのだといふことがわかりました。それまでは賢治といふ人はそんなことをする人だとは思つて居りませんでしたので、意外な感興を吾々は呼びおこしたものです。

 立松夫人と大きな花束と賢治といふ取合せは今も美しい一つの詩となつて、吾々の脳裡に消ゆることなく残つてゐます。

 

 昭和二年頃、立松房子夫人の花巻・朝日座での独唱会の時のエピソードですが、前出の同じ昭和二年の夏に「学校の同窓会の余興にみんなで『眠りの精』の合唱の練習をした」とある。賢治は立松房子の朝日座の独唱会のことを知っていて、発売になったばかりの彼女が歌う『眠りの精』のレコードが手元にあったのか、そんな思いつきで、同窓会の余興にこの曲を選んだのではないかとも推測できる。

 

 

「イワテ・イズ・ザ・ハート・オブ・ジャパン」と「イーハトーブ・チルドレン」 IWATE is the Heart of JAPAN and IHATOV CHILDREN

 

「イワテ・イズ・ザ・ハート・オブ・ジャパン」という言葉は、私がここ20数年使用している標語だ。直訳すると「岩手は日本の心(ハート・精神)だ」となる。

人体を日本地図になぞらえると、頭は北海道、岩手は丁度心臓(ハート)に位置する。そして、この「イワテ・イズ・ザ・ハート・オブ・ジャパン」を短縮して読むと「イーハトーブ・ジャパン」となる。

「イワテ・イズ・ザ・ハート・オブ・ジャパン」は「イーハトーブ」の語源である。

甚だ強引な解釈だが本当らしいと云えば本当らしい。

 

 20数年前、当時私が関わっていた仙台の某・障害者支援施設が障害をテーマとした文学賞を設けていて、その審査員の一人に天沢退二郎さんがいた。天沢さんと言えば、当時それほど宮沢賢治に詳しくない私でも知る人ぞ知る「宮沢賢治研究」の第一人者だ。その天沢さんに臆面もなく尋ねた。「イワテ・イズ・ザ・ハート・オブ・ジャパン」という言葉が「イーハトーブ」の語源だと言っている人がいるのですが? 即答は、「そんな話は聞いたこともない」だった。

 実をいうとこの「イワテ・イズ・ザ・ハート・オブ・ジャパン」という言葉の解釈について私に教えてくれたのはMという知人だった。数年後このことを本人に質したところ、そんな話をした覚えがないとの答えだった。以来、この言葉は私が天から授かった言葉として使用している。

 数年前、「イワテ・イズ・ザ・ハート・オブ・ジャパン」は岩手県のキャッチコピーに最適と思い、県の「提言箱」?を通じ提言したものの何の反応もなかった。残念。

「イワテ・イズ・ザ・ハート・オブ・ジャパン」という言葉は、私のキャッチコピーとして様々な場面でこれからも使っていきたい。

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 その後に生まれた言葉が「イーハトーブ・チルドレン」だ。

ちょうど大谷翔平クンが大リーグに行った頃だったと思う。何せすごい! 岩手から大リーガーが生まれた。私の青春時代の岩手といえば、有名人は他県と比べて少ないし、何事も全国的にイメージが低く、日本のチベットなどともいわれた。知らずと劣等感を感じたとしても仕方がなかった。その岩手がすごいことになってきた。続く菊池雄星、ちょっと先輩には楽天・銀次もいる。ボクシング界の八重樫は黒沢尻工業出だ。これからが期待されるロッテの佐々木朗希もいる。とにかく岩手の子どもたちがすごい! この子たちを「イーハトーブ・チルドレン」と呼ぼう!

 

 もうずいぶん前の話だが、「先進国がトップを争いし、急ぐがゆえに行く先見えず空回りしているうちに、亀のようにゆっくりと歩んできたアイルランドの精神文化がいつの間にかトップを歩んでいた。」と言った人がいる。「一周遅れのトップランナー」という言葉があるが、蝦夷や藤原一族が築いた独特の文化が何かを生み出しているのかもしれない。「イワテ・イズ・ザ・ハート・オブ・ジャパン」なのだ。

 

 余談だが、大谷クンとホームラン争いをしているゲレーロ.Jr.  は、カナダ・トロントブルージェイズの選手だが、そのトロントにも「大谷翔平ファンクラブ」があるそうだ。なんでもコロナ禍が明けたら大谷という人間を育んだ地にみんなで行ってみたい。「奥州参り」をしたいと話しているそうだ。

 

           茄子知人商会(Eggplant friends company) ささきたかお