草刈兵衛博士
P275 ・・・先の主治医であった佐藤長松博士は、それから間のない十月初めに辞職することになり、十月十日からは新しく花巻(共立)病院に赴任した草刈兵衛博士が主治医となって須山さんと力を合わせて治療に当たることになりました。この草刈博士は敬虔なクリスチャンの優れた人格者でありまして・・・
ここに登場する草刈兵衛博士は、上記のように昭和6年10月10日に賢治の主治医となり、昭和8年賢治が亡くなる前日9月20日に最終診断を下した方でもありますが、主治医になってから、俳句・連句を通じても賢治と交友があったとされています。
さて、我が家から仙台駅に向かって徒歩15分、仙山線東照宮駅の並びに「草刈内科医院」があります。現院長は草刈拓先生で、先代の院長は父親の草刈兵一郎先生で私も多少面識のある方でしたが故人です。この兵一郎先生の「兵」と草刈兵衛の「兵」にピンときました。「草刈兵衛は現草刈拓先生の祖父ではないか?」 このことが頭から離れず、思い切って草刈内科医院を訪ね拓先生にお伺いしました。的中しました。自分の身近なところにこんな賢治にまつわる方が・・・。
賢治と俳句仲間であったというから、ひょっとして賢治さんとの交友の古いメモでも残っているのでは?
歌壇・俳壇のことは詳しくないので、この件はあまり深入りすべきでないと思いつつ、やはり気になる性分、たしか拓先生は叔母か誰かに俳壇に関わる方がいるようなお話をしていた。気にかかっていた矢先に他から情報が入ってきた。その叔母は蓬田紀枝子さんという方で、俳句の世界ではよく知られている方だという。調べてみると、高齢ながら現役として活動していることや、北上市の現代詩歌文学館の評議員でもあったという。賢治と草刈兵衛との俳句繋がり、そして草刈家と縁のある蓬田紀枝子さんは俳人だとなると、何か匂ってくる。
再度。拓先生に伺ってみることにした。蓬田紀枝子さんは、兵一郎先生の妹であり、ということは草刈兵衛の娘であるということがはっきりした。「身体は弱ってきたが頭脳明晰で元気で、近々会うことになっている。」というお話しをいただいた。
蓬田紀枝子(1930年生まれ)さんは仙台にお住まいです。草刈拓院長のお計らいによって、電話でお話を伺うことが出来ました。
・・・私は仙台で生まれましたが、父・兵衛(医師)の仕事の都合でちょうど生後100日の日に青森に移りました。その時にすでに二人の姉と兄・兵一郎がおりました。その後、1931(昭和6)年に花巻に移りますが、当時の花巻病院の院長だった佐藤隆房著「宮沢賢治」(「隆房院長」を「りゅうぼういんちょう」と仰っておりました)によると、花巻病院に赴任したのは、1931(昭和6)年10月10日とあり、前任の佐藤長松博士の辞職を受け継ぎ、賢治さんの主治医になったとあります。
私はまだ一歳半から三歳の頃で、あまりよく覚えていませんが、賢治さんがお亡くなりになるまでの凡そ二年の間で記憶に残っていることといえば、賢治さんの家は裕福でしたから、診察に行くときには必ずタクシーを迎えによこします。兄・兵一郎は四・五歳の頃で、運転手さんに「おめえも乗ってぐが」 といわれて宮沢家まで同乗し、帰りにはお菓子の包みをいただいて帰ってきたという話。それから、夜中に急な往診を受けたとき、母は私に「今からお父さんは、暗くて怖いところに行くんだよ」と話したことを覚えています。賢治さんの主治医となってからおよそ二年の間に、俳句仲間としてのお付き合いもあったようですが、このことに関することは何も残っていませんし、あまりよくわかりません。
花巻では弟たちも生まれ、みんなで幼年時代を過ごした町で、私にとってふるさとのような思い出深い町です。
蓬田さんはご高齢ですが、20分に及ぶ電話の声からは、かくしゃくとして聡明な様子がうかがえました。父の影響もあってか、俳壇で「駒草」の三代目主宰を継承、何冊もの句集を発刊し、俳人協会顧問、日本現代詩歌文学館評議員などを歴任されました。