賢治が使った蓄音機について 其のⅠ

賢治が使った蓄音機について 其のⅠ

羅須地人協会で生活を共にした鈴木恭の証言 

鈴木守著「みちのくの山野草」によると、当時使用していた蓄音機について以下の二つのエピソードがある。同じ鈴木恭の証言だがやや異なっている。

(一)

 金がなくなり、賢治に言いつかつて蓄音器を十字屋(花巻)に売りに出かけたこともあつた。賢治は「百円か九十円位で売つてくればよい。それ以上に売つて来たら、それは君に上げよう」と言うのであつたが、十字屋では二百五十円に買つてくれ、私は金をそのまま賢治の前に出した。賢治はそれから九十円だけとり、あとは約束だからと言つて私に寄こした。それは先生が取られた額のあらかた倍もの金額だつたし、頂くわけには勿論ゆかず、そのまま十字屋に返して来た。蓄音器は立派なもので、オルガンくらいの大きさがあつたでしよう。今で言えば電蓄位の大きさのものだつた。

  この講演内容は昭和29年12月21日の「賢治の会」例会で行われたものである。

  次にあげる(二)は、千葉恭自身が別なところで語っている内容で(一)とはやや異なっている。

(二)

 蓄音機で思ひ出しましたが、雪の降つた冬の生活が苦しくなつて私に「この蓄音機を賣つて來て呉れないか」と云はれました。その当時一寸その辺に見られない大きな機械で、花巻の岩田屋から買つた大切なものでありました。「これを賣らずに済む方法はないでせうか」と先生に申しましたら「いや金がない場合は農民もかくばかりでせう」と、言はれますので雪の降る寒い日、それを橇に積んで上町に出かけました。「三百五十円までなら賣つて差支ない。それ以上の場合はあなたに上げますから」と、言はれましたが、どこに賣れとも言はれないのですが、兎に角どこかで買つて呉れるでせうと、町のやがら(筆者註:「家の構え」の意の方言)を見ながらブラリブラリしてゐるとふと思い浮かんだのが、先生は岩田屋から購めたので、若しかしたら岩田屋で買つて呉れるかも知れない……といふことでした。「蓄音機買つて呉れませんか」私は思ひきつてかう言ひますと、岩田屋の主人はぢつとそれを見てゐましたが「先生のものですな―それは買ひませう」と言はれましたので蓄音機を橇から下ろして、店先に置いているうちに、主人は金を持つて出て來たのでした。「先に賣つた時は六百五十円だつたからこれだけあげませう」と、六百五十円を私の手にわたして呉れたのでした。私は驚いた様にしてしてゐましら主人は「……先生は大切なものを賣るのだから相当苦しんでおいでゞせう…持つて行って下さい」静かに言ひ聞かせるように言はれたのでした。私は高く賣つた嬉しさと、そして先生に少しでも多くの金を渡すことが出來ると思つて、先生の嬉しい顔を思ひ浮かべながら急いで歸りました。「先生高く賣れましたよ」「いやどうもご苦労様!ありがたう」差し出した金を受け取つて勘定をしてゐましたが、先生は三百五十円だけを残して「これはあなたにやりますから」と渡されましたが、私は先の嬉しさは急に消えて、何だか恐ろしいかんじがしてしまひました。一銭でも多くの金を先生に渡して喜んで貰ふつもりのが、淋しい氣持とむしろ申し訳ない氣にもなりました。私はそのまゝその足で直ぐ町まで行つて、岩田屋の主人に余分を渡して歸つて來ました。三百五十円の金は東京に音楽の勉強に行く旅費であつたことがあとで判りました。岩田屋の主人はその点は良く知つていたはずか、返す金を驚きもしないで受け取つてくれました。

 東京から歸つた先生は蓄音機を買ひ戻しました。そしてベートーベンの名曲は夜の静かな室に聽くことが多くなつたのでした。

             <『四次元9号』(宮澤賢治友の会)>

◇二つのエピソードについて

 さて、千葉恭が蓄音機を売りに行ったという二つの似た様なエピソード、どちらの場合も下根子桜時代に別宅に置いてあった蓄音機を売りに行ったというものである。

 しかしこの二つのエピソードは、

・『イーハトーヴォ復刊5号』の場合

 100~90円位で売つてくればよいと賢治は言った。十字屋では250円で買ってくれた。

・「宮澤先生を追つて(四)」の場合

 350円までなら売ってよいと賢治は言った。岩田屋で650円で買ってくれた。

ということだから、経緯は同じ様だが、金額といい売った店といい全く違う。したがって考えられることは、

(ア)金額と店はそれぞれ千葉恭の記憶違いで1回きり。

(イ)同じ様なことが2回あった。

のどちらかであろう。

 そこで参考にしようと思って『岩手年鑑』(昭和13年発行、岩手日報社)の広告を見ていたならば、その中の広告欄にコロムビア蓄音機が45円~55円とあった。もし大正末期もこの程度の値段ならば当時の賢治の月給は百円前後だったはずだから、一ヶ月の給料で優に買うことは出来たであろう。なお、賢治の蓄音機は250円あるいは650円で買い上げてくれたということだからおそらくその金額はそれぞれの蓄音機の販売価格と推定出来る。したがって賢治が持っていた蓄音機は相当高額であったに違いない。

 実際、そのことを示唆しているのが前述したような

 「当時一寸その辺に見られない大きな機械」

という証言、また「賢治抄録」(『宮澤賢治研究』(草野心平編、筑摩書房)258p)に登場する

 「二階は八疊位の大きな室で、奥の方につくえと本が一杯あり、その脇に蓄音機が置いてあつた、この蓄音機も一般のものと違い大きな型のものであつた」

という証言である。売った蓄音機がこの蓄音機であれば相当高価なものであったことであろう。

 仮に250円の蓄音機の方だとしても月給の約2.5倍の、650円ならば優に6倍以上の額になる。

 

 以上、鈴木守著「みちのくの山野草」からの引用だが、さて、鈴木恭が売りに行った蓄音機はどんな蓄音機だったか?

賢治が使っていた蓄音機について、経緯に沿って証してみよう。 次回に続く