ブラームス「眠りの精」と賢治の花束

ブラームス「眠りの精」 

  その年(昭和二年)の夏だったかも知れない。私達は小学校の同窓会の余興に出てはどうかと云う事になった。然し楽器では自信がないから声楽をやる事にした。先生は二枚のレコードを貸してくれた。一枚は十二吋盤で曲は忘れたが面倒だったので十吋の「眠りの精」という独逸語の合唱をやる事にして練習していた。・・・・

  伊藤克己「先生と私達」-羅須地人協会時代― 『宮澤賢治研究』草野心平編より

 

 当時、立松房子というソプラノ歌手が歌った「眠りの精」のレコード盤がある。生徒たちが小学校の同窓会で歌うために練習した「眠りの精」と何か関係がありそうなエピソードが、関登久也著『宮澤賢治素描』という本の中に載っている。

 関登久也(本名 関徳弥)は、賢治からすると従叔父(いとこおじ=父方祖母の腹違いの弟の息子)にあたり、年齢は賢治の3歳下で、生前の賢治を兄のように慕っていたといわれている。

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  花 束

 昭和二年頃でありましたか、東京から声楽の立松房子夫人が花巻に参りました。夫君の立松判事が職務上の事件から、世間的に問題を捲き起こし、たいへん同情されて居りました。随つて立松夫人の独唱会もそれらの原因もあつてか人気を呼び起し、当日の朝日座に於ける会は、大入でなかなかの盛会でした。その頃賢治は羅須地人協会を開設し、音楽に多大の関心を持つて居られましたので、オルガンやギターを買つて勉強してゐると云ふ話が私達の耳にも這入つて居りました。さて当夜の独唱会には私も参り、立松夫人の奇麗な、しかも精神的なソプラノに感激して耳を傾けて居りましたが、プログラムもだんだん終りに近づいた頃、可愛い尋常一年位の女の子が舞台に出て来て、手にあまる美しい花束を、立松夫人に渡しました。花束は実に水々しく真紅の花、淡紅色の花、それに白や水色など、或ひはほやほやした毛のアスパラガスなど交へたものでした。その少女は町の宮金といふ砂糖問屋の可愛い百合子さんといふ少女でした。立松夫人は夫君を助ける為に一人児を家に置いて、地方廻りの独唱会を開いてゐるといふことなど、大分人々の同情を買つてゐましたが、花束を捧げた少女と、立松夫人のとり合せは大変涙ぐましい情景で、しかも美しい大きな花束は一層、その場面の気分を引立たせたので、満堂は酔へるが如く拍手の嵐を送りました。その時あの花束は一体誰が送ったのだらうと考へてみましたが、少したつてそれは賢治が手作りの花を少女へ頼んで渡したのだといふことがわかりました。それまでは賢治といふ人はそんなことをする人だとは思つて居りませんでしたので、意外な感興を吾々は呼びおこしたものです。

 立松夫人と大きな花束と賢治といふ取合せは今も美しい一つの詩となつて、吾々の脳裡に消ゆることなく残つてゐます。

 

 昭和二年頃、立松房子夫人の花巻・朝日座での独唱会の時のエピソードですが、前出の同じ昭和二年の夏に「学校の同窓会の余興にみんなで『眠りの精』の合唱の練習をした」とある。賢治は立松房子の朝日座の独唱会のことを知っていて、発売になったばかりの彼女が歌う『眠りの精』のレコードが手元にあったのか、そんな思いつきで、同窓会の余興にこの曲を選んだのではないかとも推測できる。