賢治が使った蓄音機について 其のⅡ

賢治が使った蓄音機について 其のⅡ

賢治が使っていた蓄音機について、私なりに検証してみると、

  1918(大正七)年ころの話として、「化粧品屋を営む義兄の岩田豊蔵が東京の仕入れ先から鷲印の100円もする蓄音機をもらい受け、レコードも仕入れ用として購入して帰った。これを聞かされたことが賢治がレコードにのめり込むきっかけだった」との記述が残っている。さらに蓄音機とレコードを借りて持ち帰り、体を動かし踊ったり、頭をラッパの中に入れるようにしたりと夢中だったと云うことですから、多分ニッポノホンの鷲印のラッパ付きタイプ(ニッポノホン35号)と思われます。(下)

                f:id:destupargo:20220210165244j:plain

 賢治が稗貫農学校の先生になった翌年1922(大正十一)年になってから音楽鑑賞会を1週か2週に1回、放課後行いました。蓄音機は朝顔型のデカイ、ラッパのついた四角い箱で・・・( 『宮沢賢治の五十二箇月』―教師としての賢治像― 佐藤成著)とあることから、この頃はまだラッパ付きタイプのものと思われます。

 蓄音機の値段は、大正初期頃はビクターやコロムビア製は1,000円、廉価製品で200円~300円したようです。その後稗貫農学校の教員1921(大正十)年になってから翌年に、鍛治町の「高喜商店」で、ラッパを内蔵した箱型の高価な最新式の蓄音機を買ったという記述があります。「高喜商店」は、ポリドールのレコードとの関係が深いこともあるのでこの蓄音機はポリドール製の可能性大である。

 斎藤宗次郎の『二荊自叙伝』(岩波書店)の中の自身が描いた挿絵からヒントを得ると、一つは1924(大正十三)年8月26日「典雅、凡庸、虔粛多種多様の西村行き」の中で、農学校を訪れ賢治とレコードを聴いた時の話に添えられた挿絵。(下左)

  f:id:destupargo:20220210171044p:plain  f:id:destupargo:20220210171021p:plain
 それともう一つは、1926(大正十五)年3月24日に「ベートーヴェン百年祭レコードコンサート」を農学校で開催したときの挿絵がある。(上右)

 絵の中にある蓄音機はいずれも卓上型のもので、左のものは蓋がついていない。右もついていないように見えるが蓋が閉まっているのかもしれない(演奏中は蓋を閉めてと書いているものがある)。   

コンサートでの使用に耐えられるグレードを考えると、先にあげたラッパを内蔵した箱型ではないかと思われる

 賢治を扱ったドラマなどではPolydor Polyfar NO.35が出てくることがあるが、年代的にはまだ発売になっていない筈だが(1935年頃)。

Polydor 最高級卓上型蓄音機モデル200号(当時七拾五圓)の可能性が高いのでは。

 下写真、 Polydor Polyfar NO.35

                                                                f:id:destupargo:20220210165747j:plain

 羅須地人協会時代1926(大正十五)年以降、昭和に入ったころには比較的安くなり、1931(昭和六)年のカタログでは据置型のビクトローラで安いタイプ80円~高額品150円とある。1925年に開発・発売された名機ビクトローラ・クレデンザ(フロア据置型)は昭和初期(1926年以降)日本にも輸入されたが当時930円だったそうだ。

  羅須地人協会を設立した年の1926(大正十五)年12月、お金が入用になって居候していた千葉恭の話に、「この蓄音機を賣つて來て呉れないかと云はれました。その当時一寸その辺に見られない大きな機械で・・・それを橇(そり)に積んで上町に出かけました。」とある。ところが売りに行った本人千葉恭の供述があいまいで、ある時の話では岩田屋は650円で売ったものをそのままの値段650円で買ってくれたとあります。また別の時の話では、十字屋では250円の値が付いたとあります。定価の半額で買い取ってくれたとしても売価は500円ほど。とすると、どちらにしてもやはり500円前後の製品であったと推測できる。この価格とオルガンほどの大きさだったという話も合わせて推測すると、ビクトローラのクレデンザが発売になる前のビクトローラ・フロア据置タイプではないだろうか。それもオルガンほどの大きさとなると横型の据置タイプVictrola 4-40 、当時635円(1920年代)が考えられる。72枚のレコードを収納できるそうだ。                                     

                                         f:id:destupargo:20220226150001j:plain                                             

 この機種だとすれば、十字屋で635円のものを中古品として250円で買ってくれたのかもしれない。羅須地人協会の 「二階は八疊位の大きな室で、奥の方につくえと本が一杯あり、その脇に蓄音機が置いてあつた、この蓄音機も一般のものと違い大きな型のものであつた」。

 この文にはレコードが置いてあったスペースについて何も触れていないことからも、蓄音機内に収納できるこのタイプではないかと推測できる。

 このほかにも、盛岡の村定楽器店で購入したものと思われる「村定」のラベルのついた蓄音機を教え子の結婚祝いに贈ったという記述もあるようですから、いろいろ錯誤しながら蓄音機を買っていたと思われる。

 1930年以降病気で臥せるようになると、「病勢も進むにつれて強い音が苦痛になったので、静かな曲を選んで、蓄音機の扉を閉めて鳴らすようにしたが、後にそれでも強すぎるので、ラッパに毛布をつめて蚊の鳴くような音でかけなければならなかった。」『兄のトランク』「兄とレコード」(宮沢清六著 ちくま文庫)  

 この記述の「ラッパに毛布をつめて」とあるラッパとは、箱型で前面に扉が開閉式になっていて、その奥にラッパが内蔵されているもので、扉の開閉で音量調整ができるのだが、それでも音が大きいのでそのラツパに毛布をつめたということだと思われる。     

        f:id:destupargo:20220211143851p:plain

 実際どんな蓄音機を使っていたかについて、清六さんご存命の時に詳しく伺って記録に残した方が居たなら、と悔やまれる。