わんこそばの発祥は花巻? 驚いたのはそれだけではない。

 

先ごろの地元の新聞で、わんこそば「発祥は花巻」という記事が目に留まった。

 私は「わんこそばといえば盛岡」と思っていたので驚いた。それもその説を唱えているのは花巻在住の泉沢善雄さんだ。泉沢さんは知っている方だったのでなおさら驚いた。泉沢さんは私と同じように宮沢賢治研究、特に賢治と音楽について造詣が深く、賢治が聴いていたと同じSPレコードを集め、聴く会なども地元花巻で行っている。

 盛岡でのわんこそばの発祥は、大正時代の首相 原敬(盛岡出身)が墓参りに帰省した際に「そばは椀コに限る」と言ったことに由来するという。一方、花巻説は江戸時代前期の盛岡藩主・南部利直が花巻に寄った際、献上されたそばがおわんに盛られていたことに由来し、両市はお互いに「発祥」を譲らなかった。それを受けて、泉沢さんは店主らの聞き取りや郷土史などを調査した結果、明治時代に初めてわんこそばという名称で提供したのが花巻の「大畠家」だと突き止めた。一方、盛岡で広まったのは戦後、盛岡のそば屋が大畠家を参考にして始めたことがきっかけだったというのである。

ここでまた驚いた。

 大畠家は、なんと宮沢賢治の生家(豊沢町)の2軒先を右に曲がって数軒目左並びにある。それも、賢治が花巻農学校の教諭になった翌年、レコードコンサートで知り合い、相思相愛ながら賢治の止む無き理由で別れることになった大畠ヤスの家である。ヤスは当時花城小学校の先生で、学校勤務のかたわらよく店を手伝っていた。賢治との失恋の後、大迫出身でシカゴで旅館業を営んでいた及川末太郎に嫁ぎ、シカゴに渡り3年後に病気で亡くなっている。この当時(1923年頃)のシカゴは、ジャズの中心地であり、禁酒法アンタッチャブル」や「グレート・ギャツビー」の時代でもある。私の定説「賢治が本場のジャズを知っていた」、それは、この大畠ヤスとシカゴに起因するのではないか ?、という仮説を立てている自分にとって「大畠家」は「わんこそば」以上に大切な存在なのである。

この話は次回に回すとして、先日その「大畠家」でそばを食べてきた。

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 午後2時までのお昼の営業時間、ひっきりなしにお客さんだ入ったり出たり。花巻では定着した人気のある蕎麦屋さんのようだ。友人の情報ではざるソバが定番。1枚では少ないので2枚が普通というので440円のざるソバを2枚いただいた。更科系の細めのソバでおろし南蛮とネギがつく。