藤原嘉藤治のその後

藤原嘉藤治とは?

 賢治の音楽における無二の理解者であった藤原嘉藤治とはどんな人なのでしょう?

 2018年にWOWOW連続ドラマとして放送された「宮沢賢治の食卓」(鈴木亮平が賢治役)で藤原嘉藤治を演じたのは山崎育三郎でした。現在NHK朝ドラで放映中の「エール」では山崎育三郎は佐藤久志役としてちょっとキザな音楽教師役を演じていますが、これがどうしても「宮沢賢治の食卓」の時の藤原嘉藤治と被ってしまう。どちらも音楽教師でちょっとお洒落でキザ?な役柄。で、実際の嘉藤治はどうだったのでしょう? 

 昭和3年(1928年)賢治の仲人でユキ子さんと結婚。昭和8年(1933年)9月賢治が亡くなって1週間後辞表をだして学校を退職し、翌年賢治全集編纂のため上京し東京に家族と居をかまえました。しかし10年後の終戦間際の8月13日故郷岩手県矢巾に戻りました。その間こんなはなしもあります。賢治と仲が良かった後輩の森荘己池も戦前上京しようとしましたが、日本が戦争への道に向かう状況を察し、今は来るべき時ではないと助言したそうです。森壮己池の四女の三紗さん(盛岡市在住)は、‟もしあの時父が東京へ行っていたら私はこの世に生を受けなかったかもしれない”と語っているそうです。

 帰郷した嘉藤治は賢治の精神を実践しようと紫波町水分村東根山麓に入植。同じ開拓農民の過酷な労働環境、厳しい生活状況を改善するためにさまざまな開拓行政へはたらきかけもおこないました。県の開拓者連盟委員長などを長年務め、1971年、岩手県の県政功労賞を受賞しました。

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嘉藤治が入植した紫波町水分村の「ビューガーデン」に隣接している嘉藤治の家

 さて、音楽好きだった嘉藤治が残したレコード183枚が現存しているということを最近知り、情報を伝手に運よくそれらのレコードのリストを見せていただくことができました。クラシックについては賢治さんの聴いていた楽曲と被るものはほとんどなく、開拓時代を乗り越えて、多少ゆとりが出てきた頃でしょうか?多分終戦後の昭和5~60年以降に入手したものの多くは農業や山の暮らしの匂いのする民謡や俚謡、奥さんの好きな純邦楽などが多いのですが、それらに混ざって60年代のビートルズやフレンチポップスなど、私も青春時代に聴いた曲も同じように聴いていたことに親しみを感じました。賢治さんも長く生きていたら戦時中はどうしたのだろう?ビートルズに出会ったときはどう感じたのだろう?東京オリンピックは・・・等、と想像することがあります。嘉藤治は昭和52年(1977年)81歳で死去されました。

賢治 1927年(昭和2年)秋の「レコードコンサート」

1927年(昭和2年)秋の「レコードコンサート」より

 

 賢治さんは「羅須地人協会」での様々な活動の一つとして「レコードコンサート」をやっていました。 

佐藤隆房著『宮沢賢治冨山房昭和17年初版)の中に書かれたある日の「レコードコンサート」から紹介しましょう。

 

 昭和二年の秋の末の一夜、土地の花巻(共立)病院の院内で藤原先生*を中心として熱心な音楽愛好家が集まって、レコードコンサートが開かれました。

 賢治さんと藤原さんとは大の仲良しで、仲良しだけに時々激しい論争をします。(中略)

 フランスのドビッシーの何番目かの「海」という交響曲のレコードをかけられる時です。

 「通俗的でも何でも、曲に解説をつければ聴きやすいからひとつ解説をつけてはどうだろうね。」と賢治さんは言いました。

 「解説なんてつけたってしょうがない。聴くそれぞれの人によって感じが違うものだし、第一そんなにはっきり解説をつけるということは、音楽の場合は間違っている。」と音楽の先生は主張して譲らないのである。

「いや、とにかくそんなら私がする。」ということになって、賢治さんは立ち上がりました。

レコードはかけられて、ドビッシーの「海」の管弦楽の一曲が秋の夜の静けさに織り込まれて流れます。

「きれいなきれいな星月夜で、静まった海上に一隻の船が浮かび出た所です。乗っている漁夫が今海に入りました。次第次第に深く潜って行きます。今水の中で漁夫はたこを捕らえました。大急ぎで上がってきます。たこは船の上に上げられました。」

 そのレコードが終わると同時に藤原先生は昂奮して立ち上がりました。そして賢治さんに向かって「そんな説明をするのか、君、僕は帰る。お前とは絶交だ。」と云いすてて、どんどん出て行ってしまいました。

 わけを知っている人は、お腹の皮がよれるばかりおかしかったのです。吹き出しては藤原先生にすまないと思って。前こごみになって、腹をおさえながらじっと辛棒していましたが、わけを知らない人は、あまりのけんまくにギクッとしました。

 藤原先生の足音が廊下に消えていったとき、傍らの人が、

「賢治さん、いいんですか。」と聞きました。すると賢治さんは、

「なに、いいんです。絶交はもうこれで三,四回目だから。」と言ったので、緊張した皆の気持ちが一時ゆるんで、どっと笑いだしてしまいました。

 

注)*藤原先生=藤原嘉籐治と賢治は、賢治が花巻農学校教員の時に隣接する花巻高等女子高の音楽教員だったことで出会い意気投合。嘉藤治は、演奏中の熱中状態の最高潮の時、顔がタコに似てくるので、生徒達が「タコ」とあだ名をつけていたのだそうです。

 さて、どうでしょう。賢治さんにはこういったお茶目というか、人を怒らせるようなちょっぴり冗談好きな面があったようです。

 

 

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ドビュッシー「海」/コッポラ指揮 音楽院コンサート協会管弦楽団 GRAMOPHON盤

1905年に出版された「海」の初版スコアの表紙。北斎『冨嶽三十六景』~「神奈川沖浪裏」に類似した絵。実際にドビュッシーの部屋の壁に北斎の「神奈川沖浪裏」が飾られていたそうです。

 

万城目 正(まんじょうめ ただし)と賢治

 


万城目 正(まんじょうめただし)と賢治 

  万城目 正といえば、古賀政男、古関祐而、服部良一を受け継ぎ昭和の歌謡史に偉大な業績を残した人物として知られる人。彼の作品には叙情的なしっとりとしムード曲が多く、外国のリズムを歌謡曲に取り入れ高峰三枝子が歌った ♪懐かしのブルース、♪別れのタンゴ、♪情熱のルムバ など一連の名曲。美空ひばりの ♪越後獅子の歌、♪悲しき口笛、♪東京キッドは彼女をスターへと押し上げた初期のヒット曲。島倉千代子のデビュー ♪この世の花、大ヒット曲 ♪旅の夜風 は当時乙女の涙を誘い、代表曲 ♪りんごの歌 は敗戦のショックで虚脱状態にあった多くの人々に、大きな夢と、あしたに希望を与えました。

  万城目 正は、1905年(明治38年)北海道幕別町で生まれ1968年63才で歿しました。万城目 正が華々しく活躍した舞台は東京ですが、なぜか彼のお墓は仙台市北山・子平町の林子平が眠る同じ「龍雲院」にあります。実は「龍雲院」は古くから万城目家ご先祖の菩提所なのです。

 そこで万城目家の歴史をたどってみると、先祖は稗貫と称し、源頼朝に仕え功を挙げ、奥州稗貫郡(現・花巻)鳥谷崎(とやざき)城を賜る。天正18年(1590)城陥され城を受け渡しますが、文禄2年正月(1593)貞山公が宮城野で猟の折りお目通りを許され、公は事情を鑑み禄を賜り伊達の家臣となります。この時姓を萬城目とし、以来萬城目荘兵衛盛馬から代々政宗公に仕え、1868年(明治元年大政奉還により北海道の幕別に移り住むも、万城目家は1667年(寛文7年)から龍雲院を菩提所としています。

 北海道の幕別で育った万城目 正は、音楽を志し武蔵野音楽学校でバイオリンを専攻、昭和11年頃から松竹キネマの音楽部を担当、映画主題歌を作曲。昭和13年日本コロムビアの専属とり、その後数々のヒット曲を生み日本を代表する昭和歌謡の作曲家となります。・・・が、

 駆け出し時代の大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災、東京で職を失った活動写真の弁士や楽士のなかには地方に活躍の場を求める人も大勢いました。そんな中で盛岡を訪れた映画人のひとりに万城目 正もいました。盛岡には1915年に開館した岩手県初の映画常設館・紀念館がありましたが、その館主の円子 正(まるこただし)は東華管弦団の楽長=指揮者も兼ねていました。まだ無名の青年楽士だった万城目(当時18歳)は、その紀念館でチェロ弾きをしており、昭和2年開館の岩手県公会堂の6月の落成記念式典には円子 正氏指揮のオーケストラで、彼がチェロを弾いたという記録もあります。

   一方、賢治はそのころ、大正15年花巻農学校を退職し、羅須地人協会を設立し活動を始めた時代にあたります。岩手県公会堂が開館した昭和2年の9月以降になりますが、賢治はお気に入りの映画の一つ、エミール・ヤニングス主演の映画「肉体の道」を弟の清六さんと花巻「朝日座」で見たことになっていますが、この映画の東京「邦楽座」での上映で楽士を務めたのは、当時日本交響楽協会に在籍していた黒柳守綱黒柳徹子の父)で、画面のバイオリンのシーンに合わせて弾く絶妙な演奏が語り継がれています。そこで気になるのが、花巻「朝日座」ではそのバイオリンをだれが弾いたのか?です。当時盛岡で活躍していた太田カルテットのメンバーという見方もありますが、『セロ弾きのゴーシュ』に出てくる「金星楽団」が演奏を披露する場所が「町の公会堂のホール」と設定されていることから、ゴーシュのモデルは万城目 正であり、「朝日座」で楽士としてバイオリンを弾いたのも万城目 正であったふうに考えてもおかしくはない。

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「肉体の道」を解説した弁士のレコード

 

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「ジャズ一節 肉体の道」 左側5行


 

「西洋音楽の家元」のモデルは誰か?(前回の続きです)

西洋音楽の家元」のモデルは誰か?

 賢治さんは本当にたくさんのレコードを買っていましたし聞いていました。買ったものを一度聴き終えるとそれを売ってまた別のレコードを買ったり,人にあげたりしていました。あげた人には遠野に住む子弟の沢里武治や後輩で仲の良かった盛岡の森荘己池などがおりましたが、そんな中にストラビンスキーの「火の鳥」のレコードをあげた人がおります。やはり賢治と交遊が深かった盛岡高等農林学校在学中の恩師・玉置邁です。
 玉置邁(つとむ)1880‐1963-は三重県の出身で、明治40年東京帝大文学哲学科中美学を専攻、同年11月6日盛岡高農講師として迎えられ以来28年間定職し、盛岡に音楽、美術其の他すべからず文化を注入した人物である。講師から大正元年8月には教授となり、教鞭の傍ら『岩手日報新聞』にしばしば寄稿し、芸術全般にわたって一般読者の啓蒙に力を注ぎました。賢治は盛岡農高での大正4年から7年までの間、そして卒業以降も生涯を通じて敬愛し続けた一人として、哲学・美学が専門の玉置から受けた感化の大きさは計り知れないようです。特に在学中の語学の授業はもちろんのこと、大正5年当時玉置が編集長をしていた『校友会誌』を通じての交流もありました。
 大正6年4月 賢治が詠んだ俳句
 ― ひしげたる ラッパの前に首ふりて レコードを聴く 幹事の教授 ― 
                      【新】校本宮澤賢治全集 第一巻より

そして、卒業後も年に何回か玉置宅に遊びに来て話し込んでいたらしい。
火の鳥」のレコードは、昭和6年の暮れ、お歳暮の代わりにといって玉置に持ってきたものと言われています。

火の鳥(ストラビンスキー) 
         / O・フリード指揮 伯林フィルハーモニー管弦楽団 

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火の鳥」 L'Oiseau de Feu ( Fire‐Bird ) Stravinsky 作曲、演奏はOsker Fried w/ Berlin Philharmonic Orch.  Plydor 45009  1928年発売
 
 そこで、賢治さんの昭和8年(1933年)8月のメモ書き「西洋音楽の家元」の家元とは誰がモデルか?・・・ですが、

冒頭の件はこうでしだ。    

明治四十年  先生二十才赴任

明治四十五年 大正元年
             作曲、守もせむるも風ふけて、
             校歌 旅音楽家来れば追い返す 蓄音機入り来る
             初めは浪花ぶしやがて洋楽来る先生のぼる・・・・・・。

 前述の履歴にも「明治40年11月6日盛岡高農講師として迎えられ以来28年間定職」とあることからも「西洋音楽の家元」とは玉置邁にほかなりません。
当時最先端のクラシック音楽家ストラビンスキーのレコードを選ぶあたりも玉置邁はその相手として不足はありません。賢治さんはほかにも近代音楽の先駆的な作品と言われるムソルグスキーの「禿山の一夜」も聴いていました。ちなみにこのレコードは、森荘己池にあげた一枚として現存しています。

 

 さて、この賢治さんの「西洋音楽の家元」のメモ書きをベースにして肉付けし、一つのストーリーにまとめ上げてみようという方はおりませんか。

「西洋音楽の家元」・・・賢治のメモ書きより

宮沢賢治の昭和8年(1933年)8月のメモ書きに「西洋音楽の家元」というのがあります。

 校本『宮沢賢治全集』という宮沢賢治の先駆的研究者がまとめ上げた「賢治のバイブル」のような本がありますが、その12巻上 644~646ページに載っています。

 

 西洋音楽の家元」    

 

明治四十年  先生二十才赴任

 

明治四十五年 大正元年

          作曲、守もせむるも風ふけて、

          校歌 旅音楽家来れば追い返す 蓄音機入り来る

          初めは浪花ぶしやがて洋楽来る先生のぼせる

          ピアノのできる生徒来る先生演奏会に空手でひくレコ

          ードにも空手でひく

          ある朝ドラソッソソ ソミレド ドラソッソソ ソミレドとキンキン

          やられ先生ぼうとなる

大正十年    常設館なる

          はじめてバイオリンを用ふ先生談判に赴く。場主陳謝す

大正十三年   オルガン事件

          先生祭に鹿踊を叱りつく村の連中先生を怒る

          音楽全集買ひたるものあり先生怒りてこれを封ず

大正十四年   先生の全盛時代 床の間には十七挺のヴァイオリン、

          一挺のセロ、サクソフォン、ベビーオルガン

          「アミーバーより紳士まで」交響楽作成

          卒業生うまくなって帰って来る

          先生子弟の礼を欠くといって怒る

          「先生だって月給とって置いていつまでも子弟の礼

          だなんて云うのはおかしいわ。わたしことに先生から

          習った悪い癖を抜くのにまる一年かかったわ

          うまきピアノ弾き来って真剣に勝負を乞ふ。先生めち

          ゃくちゃに負けたほかに叩きつけられ楽器類を全部

          分捕りされる。

          音楽のために戦ってきた。

大正十五年   退去、

          先生夜逃げに決す

          並木のはてに館主追ひ来りて一封を渡す

 

 

  最初は洋楽を毛嫌いしていた先生が、徐々に洋楽にはまりたくさんの楽器を床の間に並べご満悦。ところが上手なピアノ弾きが現れ真剣勝負し、負けて楽器を全部分捕られるというストーリーだて。

 だいたいストーリーの発想には身近にモデルとなった人がいるはずです。

賢治が盛岡高等農林学校時代に詠んだこんな一句があります。

 

    ― ひしげたる ラッパの前に首ふりて レコードを聴く 幹事の教授 ― 

 

                             【新】校本宮澤賢治全集 第一巻より 

                             大正六年四月 賢治が詠んだ俳句

 

  この句に出てくる 「幹事の教授」がちょっと怪しい。「西洋音楽の家元」とは誰か?

 次回で明かそう。

 

 

雨ニモマケズ  谷川 徹三 ( 詩人.谷川俊太郎の父、ピアニスト.谷川賢作の祖父 )

 

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雨ニモマケズ 谷川徹三

雨ニモマケズ   谷川 徹三

 

雨ニモマケズ  谷川 徹三 生活社刊 昭和二十年六月二十日発行

                   昭和廿年八月廿日再販発行 六十銭 二萬部

 

 著者略歴 大正十一年京都帝大哲學科卒 昭和三年以来法政大學文学部教授として今日に至る、その間文部省専門委員、大政翼賛会調査委員等。主要著書、感傷と反省(岩波) 生活・哲學・藝術(岩波)、内部と外部(小山) 展望(三笠) 日本人のこころ(岩波) 東洋と西洋(岩波) 續東洋と西洋(近藤) 私は思う(中央公論社 三笠) 心の世界(創元社) 藝術小論集(生活社) 主要譯書、ゲーテ藝術論集(改造社ゲーテ全集)

 

 谷川徹三は、詩人谷川俊太郎の父、ピアニスト谷川賢作の祖父に当たる。上記は本の記載から拾ったもの。発行日が昭和20年6月20日、終戦間近であることに注目したい。その8月20日には再発行されている。31頁の冊子で、発売当初は50銭だったようだ。終戦を迎えようとしていた時期、どのような状況下であったか私には想像することが難しい。

 

 徹三はこのように太平洋戦争前から戦中にかけて賢治の研究・紹介を行っていて、この「雨にも負けず」をテーマとしてその描かれている内容を高く評価し、賢治の「偉人」としての評価の象徴を広く知らしめた。

文章内にはこんな件がある。

 明治以後われわれは幾多偉大な文學者達をもちました。併し、その人の墓の前に、本當にへりくだった心になって跪きたいという人を、私は賢治以外にもたないのであります。鴎外とか漱石とかいう人達は、文学者としても、人間としても、立派な人でありました。偉人と呼んでいい人でありました。 併し、私は鴎外の墓の前にも、漱石の墓の前にも、本當にへりくだった心をもって跪きたいとは考えません。併し、賢治の墓の前には私は跪きたい。

 

 そして、昭和二十三年(1948年)、徹三は、賢治が昭和6年春から技師として働き始めた岩手県一関市東山町の東北砕石工場近くの公園に賢治の詩碑を建立するという話を受けて、東北砕石工場技師時代に、火山性特有の酸性土壌の改良に石灰を利用して農産物の収穫を図りたいという強い意思が働き、その激務の為その年の秋に出張先の東京で倒れ、その後花巻で病床に伏すことになり、その年の11月に手帳に記されたのが「雨ニモマケズ」だった、といった諸々の思いを込めて自らが詩碑に筆字を刻んだ。その詩は賢治の「農民芸術概論綱要」の一節

まづもろともに
かがやく宇宙の微塵と
なりて
無方の空にちらばらう

 建立の年から70年経った2018年、長男の谷川俊太郎、孫の谷川賢作が参加し、賢作のピアノに合わせ俊太郎が詩を読むという「賢治とともに詩と音楽の世界へ」と銘打った記念事業が行われた。

 余談だが、碑文の揮毫は当初、高村光太郎氏にお願いしに行ったところ筋を通せと大喝され、宮沢清六氏に相談に行き谷川徹三氏を紹介されたということです。その後の徹三氏の揮毫ができるまでに1年程要したこと、出来てきた揮毫には宮沢賢治の名前も谷川徹三氏の書名もなく後日、「宮沢賢治記念のために 谷川徹三 書」と刻まれたそうです。



1923年~26年 宮沢賢治にとって “ジャズ” がマイブームだった。

 

1923年~26年 賢治にとって“ジャズ”がマイブームだった。

 

2019.12  ささきたかお

 

  最初に1918年~27年頃までの賢治(敬称略)を取り巻く音楽事情について羅列してみます。

 

 1918年(大正7年) 賢治22歳。盛岡高等農林学校を卒業したころ蓄音器の魅力の虜となる。

全米では前年1917年に、初めてジャズがレコード化されオリジナル・デキシーランド・ジャズ・バンドの ♪Livery Stable Blues(後の邦題「馬小屋のブルース」)が100万枚のヒットとなる。

 そのころ日本では1915年(大正4年)浅草オペラが生まれ、1917年にはスッペ作喜歌劇「ボッカチオ」の劇中歌 ♪恋はやさし野辺の花よ」や第1次世界大戦中に欧米でヒットした ♪It's a Longway to Tippireryが「女軍出征」の中で ♪チッペレリーとして歌われた。

 1918年の年末に、賢治は在京中の妹トシの看病のために母イチと上京し、賢治だけが残りトシの回復後3月、共に帰郷。約3か月間東京で過ごすことになるが、それ以前の1916年(大正5年)独逸語講習や翌年、家の商用で上京した際にはすでに浅草オペラや映画が楽しみの一つになっていた。

 

 当時の映画館では、無声映画に合わせて演奏する奏楽はヴァイオリン、フルート、ピアノにセロが入る程度で、地方の映画館では楽士はせいぜい一人か二人であった。

 一方、波多野兄弟の波多野福太郎と 弟の波多野鑅次郎(こうじろう)は太平洋航路の船の中で演奏をし、寄港先から米国の新しい音楽を持ち帰り演奏していた。

 彼らは1918年、船上での演奏に終止符を打ちハタノ・オーケストラを設立。銀座「金春館」に出演、10人~12人編成のスタイルで ♪金春マーチなどの演奏で人気を得た。

 

 1920年(大正9年) 後に賢治にチェロを教えることになる大津三郎がハタノ・オーケストラに加入。

音楽学校でセロを習っていた大津はセロやコントラバスを担当した。 

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*ハタノ オーケストラ 後列右から二人目セロを持っている大津三郎      
      内田晃一著「日本のジャズ史戦前戦後」(株)スイングジャーナル社発行  P.3より             「大正12年のハタノ オーケストラ」写真提供:高見友祥

 同じようにこの年の暮れには、歌舞伎座・松竹シネマの奏楽として楽長・島田晴誉以下10数名の編成で演奏。 

 *別紙資料 参考その1

 また、翌1921年にはハタノ・オーケストラは横浜・鶴見「花月園」で10か月間演奏した。

 

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浅草帝国館の新聞広告


 1921年

 6月17日からは浅草帝国館で“松竹獨特ジャヅバンド”のふれ込みでの演奏が行われた。*上記の新聞切り抜きは、浅草帝国館の広告です。

 

 1921年(大正10年) 賢治は1月23日に無断上京し、8月頃には妹トシの病変の知らせを受け帰郷することになるが、ちょうどこの時期と重なり浅草帝国館での演奏(6月17日~)を聴くチャンスはあった。

 

 1921年(大正10年)12月、賢治は稗貫農学校(後の花巻農学校)の教諭となり、年が明け藤原嘉藤冶と出会い意気投合。

 

 1922年(大正11年)には、神田「東洋キネマ」でも同じような映画館での奏楽が行われ、「松竹キネマ」は銀座「金春館」を買収し大編成の奏楽は人気の時代を迎える。

当時の人気曲等の状況は、

  *別紙資料 参考その2 参照

 

 この年黒柳徹子の父黒柳守綱は、所属していた三越少年音楽隊の解散を経てハタノ・オーケストラに加入している。

 賢治は5月21日には「春と修羅」に着手。11月最愛の妹トシが病気で失うという大きな出来事がある。

 

 1923年(大正12年) 「シグナルとシグナレス」や「火薬と紙幣」などを書く。前年のトシの死去後の沈黙から抜け出し「イギリス海岸」「牧歌」ほか「永訣の朝」を書き留める。エスペラント語イーハトーブ」が生まれた年でもある。

 

 1924年(大正13年) 賢治28歳。4月心象スケッチ「春と修羅」刊行。8月には「ポランの広場」を創作。12月童話集注文の多い料理店」刊行。「銀河鉄道の夜」を起案。

 ハタノ・オーケストラは「帝国ホテル」で演奏を続けるものの、映画は「無声」から「トーキー」へと変わり、映画館での奏楽は低迷し、多くの奏楽演奏者は活動の場を失う。

 

 1925年(大正14年) 山田耕筰近衛秀麿等が中心となって日本交響楽協会を設立。大津三郎も黒柳守綱も加入。NHKの開局の年でもある。

 7月「岩手軽便鉄道 7月(ジャズ)」

 

 1926年(大正15年) 近衛秀麿は日本交響楽協会を脱退し新交響楽団(後のNHK交響楽団)を設立。大津三郎も近衛秀麿に就いて参加。

 賢治3月依頼退職、夏「羅須地人協会」設立。年末セロを習うために上京し、大津三郎に手ほどきを受けるのはこの時期にあたる。セロ弾きのゴーシュ」起案。

 

 1927年(大正16年) 9月、賢治のお気に入りの映画「肉体の道」が上映されるが、その奏楽者として黒柳守綱は、映画に合せてチェロを弾いたと言われている。

 

 ざっと、1918年~27年の賢治と当時の音楽状況について羅列しました。 

 

 ここから何が見えて来るか。

 

 最初に、当時の「ジャズ」という音楽の捉え方はどうだったのか。

 

 日本にジャズが上陸したのは1920年の加州グリー倶楽部「カリフォルニア大学グリークラブ」の初来日公演で東京日日新聞が「ジャズ」解説記事を書き、東京神田の演奏会は、米国やドイツ、タイの大使 も出席した盛大なものだった。この時期、国内でもハタノ・オーケストラが映画館の奏楽で人気を得るようになるが、当時の映画館で演奏された曲はクラシックなどを含めた当時の“洋楽流行曲”(ポピュラー音楽)で、別紙資料参考 その1にあるように「カルメン」「アイーダ」「ユモレスク」「軽騎兵序曲」といった曲も総じて「ジャズ」と呼ぶようになっていた。

 賢治は1916年の上京のころから浅草に出入りしており浅草オペラや映画を観賞していた。1921年(大正10年)の無断上京の時期には、6月17日封切の浅草帝国館での「松竹獨特ジャヅバンド」の演奏を聴いていた可能性は十分にある。

 「ジャズ」という言葉が賢治作品に登場し始めるのは1924年(大正13年)の作品「ポランの広場」からだ。(1924年に花巻農学校の生徒に筆写させた草稿(欠落あり)のみが現存。そして、19248月に花巻農学校の生徒を役者として上演された。実際はそれ以前に執筆されたと推定されている。)

 

「ポランの広場」第2

 

      、千九百二十年代、六月三十日夜、 処、イーハトヴ地方、
    人物、キュステ 博物局十六等官
        ファゼロ ファリーズ小学校生徒
        山猫博士
        牧者
        葡萄園農夫
        衣裳係
        オーケストラ指揮者
        弦楽手
        鼓器楽手
        給仕
        其他 曠原紳士、村の娘 大勢、

 

    ベル、人数の歓声、Hacienda, the society Tango のレコード、オーケ ストラ演奏、甲虫の翅音

        幕あく。 ・・・・・

 

  と、ト書にあるように幕開け前の曲としてタンゴの曲♪ Hacienda, the society Tango レコードが演奏される。

  さらに劇中登場する猫博士は広場で演奏をしているオーケストラに向かって

 

     ・・・(オーケストラはじまる。)

    山猫博士 「おいおいそいつでなしにキャッツホヰスカアといふやつ をやってもらひた

           いな。」

        「冗談ぢゃない、猫のダンスなんて。」

    山猫博士 「やれ、やれ、やらんか。」

     (オーケストラはじまる) ・・・・・

 

  このシーンに登場するキャッツホヰスカア(猫のひげ)という曲は、デキシーランド・ジャズの実存する曲 The Cat's Whiskersで、演奏しているは、セントルイス生まれのチェロ奏者エドガーA.ベンソンのマネージメントによって1920年シカゴで結成されたシカゴ・ベンソン・オーケストラの曲であり1923年に発売された。

 さらに「ポランの広場」には、♪ Flow Gentry,Sweet Afton In the Good Old Summertime といった英国や米国のホームソングが賢治創作の日本語詞で歌われている。

*♪ Flow Gentry,Sweet Afton については*別紙資料参考 その3 を参照

 

 1923年(大正12年)頃に賢治は、タンゴやジャズ、英米のポピュラーソング、

いわゆる洋楽の流行音楽を良く知っていたことになる。

 

 さらに今一つ注目すべきは、前出の Hacienda, the Society Tango 録音されたのは191436日ですが、日本で紹介されたのは1921年という事になっている。

(「宮沢賢治の音楽」佐藤泰平著には 「一九二一年版ビクター・レコード目録」に掲載されているとしている)

そのB面に♪ Desecration Rag という曲が入っている。

 

デセクレーション・ラグDesecration Rag ( A Classic Nightmare)

     Introducting ragtime Perversions of “Humoresque”Dvorak)-“2nd Hungarian Rhapsody”(Liszt)

     -“Rustle of Spring”(sinding) - “Impromptu”(Chopin) - “Millitalre Polonaise”(Chopin) - and Chopin's

     Funeral March”   / ピアノ Felix Arndt   Victor 17608B 1914.03.06

               注) Desecration Rag 冒とくラグ Perversions 曲解・こじつけ

 

 クラシックのピアノ小品をラグタイムのリズムで演奏し茶化している(冒とくしている)ナンバーです。

 賢治の詩の代表作「春と修羅」の中の一篇1923930日の詠まれた「火薬と紙幣」という詩がある。その中に   

      ・・・・・・・

      鳥は一ぺんに飛びあがつて

       ラツグの音譜をばら撒きだ

 

  という件がある。ラツグとはRagtime のことです

飛び上がった鳥がラグタイムの音符のようにばらばらあちこちに飛び跳ねる。といった表現で使われている。

 

  賢治は「ポランの広場」の創作時には、 Hacienda.The Society Tango を聴いて知っていました。当然B面のこのDesecration Rag も聴いていたことになります。「火薬と紙幣」にラツグという表現はこの曲がもとになっていると考えられる。

 ラグタイムディキシーランドジャズが生まれる前の音楽スタイルで、ドビュッシーも1908年に子供の領分」に収められたラグタイムを連想させる「ゴリウォーグのケークウォーク」、翌年には「小さな黒ん坊」といった、その後ビバップの和声法(ジャズのスタイル)に影響を与えたといわれる曲を作曲している。

 

  さらに、翌1925年(大正14年)7月19日作の「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」、翌々年同人雑誌「銅鑼」7号に載った「ジャズ夏のはなしです」といった具合に“ジャズ”が登場する。

 

 セロ弾きのゴーシュ」はジャズ・ストーリーだ

 

 このような状況の中で書き始めた「セロ弾きのゴーシュ」。

 「セロ弾きのゴーシュ」が起案されたのは1925年頃とされているが、賢治がセロを習うために上京したのは1926年大正15年、12月の昭和に元号が変わる頃。

映画はトーキーとなり、奏楽の仕事は斜陽の一途をたどり始めたころで、前年に近衛秀麿が新交響楽団を設立し、賢治さんにセロを教えることになる大津三郎も新交響楽団に加わっていた。

賢治さんが大津三郎にセロを習うことになった経緯については *別紙資料 参考その4 を参照

 

 セロ弾きのゴーシュ」や「賢治とセロ」については、佐藤泰平さんの「宮沢賢治の音楽」はじめ様々な本ですでに詳しく書かれていますが、特に「セロ弾きのゴーシュ」については、情報共有者である中山智広氏のブログ「仙台発JAZZ行き5分遅れ」に以下の記述と同じような視点がより詳しく書かれています。

     *別紙資料 参考その5 を参照  

      

 「セロ弾きのゴーシュ」 の当時の音楽との関わりについてポイントを洗い出してみると、

 

主人公のゴーシュは町の活動写真館でセロを弾く仕事をしている。

  大津三郎もハタノ・オーケストラで映画の奏楽の仕事をしてきた。映画の奏楽では、クラシックだけではなく流行の曲や映画の中の擬音までいろいろなことが要求される。

 

ゴーシュが所属するオーケストラは「金星音楽団」という。

  銀座にあった「金春館」のイメージでは?または、浅草オペラの「金龍館」(大正8年~12年)。「星」は関西の「新星歌舞劇団」に由来したとも考えられる。

 

ゴーシュは楽団の中であまり上手とは言えず、いつもみんなの足を引っ張っていると楽長に怒られる。

  賢治が上京の際に新交響楽団の練習風景を見る機会があった。その時の楽長のイメージではないだろうか。

 

  セロ弾きのゴーシュ」の楽長は斎藤秀男の指導ぶりと似ている、ということから、齋藤が新交響楽団の指揮者になっ19276月以後に、賢治の上京、新交響楽団の練習を見る機会があったと推測していす。               

     『嬉遊曲、鳴りやまず―斎藤秀男の生涯―』 中丸美繪氏

 

 賢治が描きたかったのは、クラシックのオーケストラではなくジャズなどを演奏していた

映画館の奏楽オーケストラだったのでは?

 

 子狸が現れるシーン、背中にくくり付けてきた楽譜を見て“ 何だ愉快な馬車屋ってジャズか”という場面がある。「愉快な馬車屋」という曲について、ジャズなどの洋楽のが専門の筆者にとってすぐにピンと来たのは、1917年に初めてジャズがレコード化されたオリジナル・デキシーランド・ジャズ・バンドの ♪Livery Stable Blues(後の邦題「馬小屋のブルース」)だ。その根拠は、邦題の「馬小屋のブルース」は戦後つけられた題名で、当時は ♪Livery Stable Blues と言っていた。直訳すると「車屋のブルース」となる。 Livery Stable とは、馬車の駅のようなところで馬の世話などもしている場所のこと。そして曲調も馬の嘶きや大太鼓の音などが入っていて本当に愉快なイメージの曲で、子狸がセロのコマの下の絃を叩き、ゴーシュのセロと一緒に演奏する場面が描かれているが、これは正にジャズ・セッションといえる。

 佐藤泰平さんの「宮沢賢治の音楽」では、後出の「印度の虎狩り」のヒントになった♪ 印度に虎狩りにですって というレコードと同じレコードカタログに載っていたという理由から「愉快な牛乳屋」ではないかと唱えてるが、曲調がヨーデル調で場面には適合しない。

 また前出の The Cat's Whiskers を賢治は知っていたことからすれば、同じディキシーランドジャズ曲の大ヒット曲 ♪ Livery Stable Blues を知ってたことは容易に考えられる。

 

  そして、セロ弾きのゴーシュ」の中で、猫に威嚇するように弾いた曲、演奏会のアンコールにも登場する曲「印度の虎狩り」について、佐藤泰平著「宮沢賢治の音楽」では、この曲について昭和六年(1931年)五月二十五日の東京朝日新聞岩手日報の広告欄にビクターレコード音楽目録六月号の紹介があり、その中に「印度へ虎狩りにですって」(ニューメイフェア―ダンスオーケストラ)B-5936が実際に載っていたことが書かれている。「印度の虎狩り」の元歌がこの曲原題「Hunting Tigers out in “Indiah’」であるか否かは不確定だが、この奇妙な曲調が英米で人気を呼んだのが1929年。賢治の好奇心からすればこの曲に耳が奪われたとしても不思議ではない。「セロ弾きのゴーシュ」が書かれた時代とかろうじて符号する。

 

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ビクターレコード音楽目録10月号

   「印度へ虎狩りにですって」(ニューメイフェア―ダンスオーケストラ)は、ビクターレコード音楽目録

  昭和六年(1931年)十月号 (画像中央付近、「愉快な牛乳屋」は右から三列目)にも掲載されている。 

 

 このように「セロ弾きのゴーシュ」には、奏楽で演奏しなければならないような「洋楽ヒット曲」を登場させていて、クラシックは“第6交響曲”とか“なんとかラプソディ”といった具合できちんとした曲名を書いていないこともこのストーリーがクラシックのオーケストラを描こうとしていないことが推測される。

 

 以上のようにこの時期の賢治作品には、「紙幣と火薬」の中に出て来る「ラッグ」、「ポランの広場」のディキシーランド・ジャズの♪ The Cat's Whiskers、「セロ弾きのゴーシュ」に出て来る“ 何だ愉快な馬車屋ってジャズか”という台詞、さらに「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」、「ジャズ夏のはなしです」といった具合に「ジャズ」に関連する言葉がいろいろと使われている。さらに「ポランの広場」には上記のようにタンゴ曲や英国や米国のホームソング(ポピュラーソング)が登場している。この時期日本でもジャズ・ブームのような兆しがあったものの、“ジャズ”と言う言葉が一般化するのは二村定一が唄った「私の青空」や「アラビアの歌」がヒットした1928年頃になってからだ。

 

 賢治の音楽情報源は?

 こういった音楽情報を賢治はどこから得ていたのか。当時のレコード会社各社が出していた月間「レコード音楽目録」から得た情報がその多くを占めていたことは確です。また、親友・藤原嘉藤冶の追想によると、「新しいレコードでシューベルトを聴いたりベートーヴェンを聴いたりしますと、すぐにその楽聖たちの伝記や曲の解説を、原書まで読みあさり、あとまで忘れないのです。音楽のことなども、ですから専門の私よりずっとくわしく知っています。」(森荘己池「座談会・賢治素描」『宮沢賢治の肖像』(津軽書房)。このように物事のあらゆるその延長上にある情報についても良く知っていて、相当の情報通であったことは推して知るべしである。

 また、当時の日本の“ジャズ”を取り巻く情報は、・・・大津三郎との3日間のレッスンの後にお別れの茶話会をやった。・・・いわれているが、ハタノ・オーケストラで映画の奏楽の体験を持つ大津三郎から得た情報もあったにちがいない。

 

 総じて賢治は確実192223年にはジャズを知っていた。そしてこの時期の何年かの間、頭の中に“ジャズ”というマイ・ブームがあった。それもまだ“ジャズにもなっていない「当時の日本のジャズメン?が演奏するジャズよりも本場もののジャズ」を聴いて知っていたことになります。   

 

 

 

  *別紙資料 参考その1

       日本において洋楽曲に注がれる視線が強さを増してきた背景の一つとして、活動写真の奏楽を

      忘れてはならない。館内に初めて大管弦楽団が出現するのは、大正9年(1920年)歌舞伎座

      おける松竹キネマ第一回の公演(11月1~7日)である。半月のち、大阪道頓堀の角座でも松

      竹キネマの旗上げ興業が行われた。そのときの宣伝文句にいう。

      ・・・本邦映画界最初の試みにて、楽壇の権威山田耕作(のちに耕筰)氏登場。40名の楽手を監

      督し、楽長・島田晴誉氏、加瀬順氏指揮の下に演奏す。(11月12日夕刊 大阪朝日新聞

      東京の歌舞伎座のメンバーも同じであったにちがいない。松竹キネマは新橋の金春館も買

      収し、同年晦日から記念興業に島田指揮の管弦楽団20名を出演させた。さらに浅草へ進

      出し、帝国館で10年6月17日からジャズ・バンドを出す。同時に金春館でもジャズをはじめた。

       他館も松竹キネマを見倣って、カルメン」「アイーダ「ユモレスク」「軽騎兵序曲」などを繰り

      返し繰り返し演奏していく。こうした“洋楽流行”がレコード界にも反映し、松竹管弦団、敷島倶

      楽部管弦団、芦辺管弦団、IPC管弦楽団など活動館専属の管弦楽レコードが発売される。もち

      ろんレコード会社も、ニッポノホンオーケストラ、三光堂専属オーケストラ、日東管弦団、帝蓄管

      弦楽団、東亜オーケストラ団のように、専属の楽団を抱えはじめる。

      ・・・・「洋楽レコードが広く一般の家庭に歓迎されるのも遠い時代ではなさそうだ」

     (大正12年1月27日 大阪時事新報)   

                      倉田喜弘著「日本レコード文化史」岩波書店より

 

  *別紙資料 参考その2

       1910年代後半にかけて浅草六区と呼ばれる地域は映画興行の中心地でした。

      浅草帝国館のプログラム「第一新聞」の投稿文からは観客の活発な言説的交流がうかがわれます。    

      たとえば、休憩奏楽をめぐる発言では「カルメン」(1919.1.18)、「ウィリアムテル」(1920.2.

      21)、「コルネビーユの鐘」(1919.5.3)などのリクエストが載っています。

       また、1918年8月17日付けの人気投票の結果は、休憩奏楽としてた「ダブリン湾」138票、「カ 

      ルメン」65票。活劇用では、「ウィリアムテル」序曲 54票、風景用は「美しく青きドナウ」116票。

      悲劇用では、グノー「ファウスト」71票、バルフェの「ボヘミアン・ガール」63票といった具合で、

      無声映画館の楽士たちが演奏していた楽曲の一部を垣間見ることができます。

      そして、1917年には「日本のヂァッズは、こんな所から生まれはしないかと」といった記述もあ

      ります。実際のところ日本における「ジャズ」の一般化は1928年ごろからで、浅草オペラの人気

      者二村定一の「私の青空」「アラビアの唄」のヒットをきっかけに“洋楽はやり歌”を総称して「ジャ 

      ズ」と呼ぶようになったといわれています。この頃から神戸・横浜が発信地となり様々なジャズバン

      ドが登場するようになる。

         参考文献: 柴田康太郎 「サイレント期の東京における映画館の音楽実践、観客の音楽受容」

                美学. 第68 1 号(250 号)2017630 日刊行. から一部引用

 

   *別紙資料 参考その3

フローゼントリー」「牧者の歌」の原曲

      清六さん(賢治の実弟によると、Oliver Ditson18111888が設立した19世紀後半の主要な音楽出版

     社のひとつであるOliver Diston Company から出版されたHome Songs for Mixed Voice というが確かにあったといいます。 宮沢賢治の音楽」(佐藤泰平著)99より

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オリバー・ディットソンの楽譜集

   の楽譜集にFlow Gently・・・」が収められていますが、実際にメロディーも聞いていたといわれています。

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Flow Gently Sweet Afton

 

   *別紙資料 参考その4

  賢治にチェロを教えた大津さんは、戦後1952(昭和27)年、雑誌『音楽之友』1月号に『私の生徒 宮沢賢治 ― 三日間セロを教えた話 ―』という手記を発表しています。
  ある日、大津さんは、当時、自分達が稽古場で借りていたビルのオーナー塚本氏に呼びとめられて、こんな相談を受けます。
  「『三日間でセロの手ほどきをして貰いたいと云う人が来ているが、どの先生もとても出来ない相談だと云って、とりあってくれない。
  岩手県の農学校の先生とかで、とても真面目そうな青年ですがね。無理なことだと云っても中々熱心で、しまいには楽器の持ち方だけでもよいと云うのですよ。何とか三日間だけ見てあげて下さいよ。』と口説かれた。…(中略)二人の相談で出来上がったレッスンの予定は、毎朝6時半から8時半までの2時間ずつ6時間と云う型破りであった。…(中略)
  三日目には、それでも30分早くやめて、たった3日間の師弟ではあったが、お別れの茶話会をやった。その時初めて、どうしてこんな無理なことを思い立ったか、と訊ねたら『エスペラントの詩を書きたいので、朗誦伴奏にと思ってオルガンを自習しましたが、どうもオルガンよりセロの方がよいように思いますので…』との事だった。     『チェロと宮澤賢治』横田庄一郎(岩波書店

 

   *別紙資料 参考その5   

      論証:セロ弾きのゴーシュの「愉快な馬車屋」はODJBの「Livery Stable Blues」 

          宮沢賢治は「世界初のジャズレコード」を聴いた  

                    2019.09.24 Tuesday  中山智広 ブログ「仙台発JAZZ行き5分遅れ」より