「西洋音楽の家元」のモデルは誰か?
賢治さんは本当にたくさんのレコードを買っていましたし聞いていました。買ったものを一度聴き終えるとそれを売ってまた別のレコードを買ったり,人にあげたりしていました。あげた人には遠野に住む子弟の沢里武治や後輩で仲の良かった盛岡の森荘己池などがおりましたが、そんな中にストラビンスキーの「火の鳥」のレコードをあげた人がおります。やはり賢治と交遊が深かった盛岡高等農林学校在学中の恩師・玉置邁です。
玉置邁(つとむ)-1880‐1963-は三重県の出身で、明治40年東京帝大文学哲学科中美学を専攻、同年11月6日盛岡高農講師として迎えられ以来28年間定職し、盛岡に音楽、美術其の他すべからず文化を注入した人物である。講師から大正元年8月には教授となり、教鞭の傍ら『岩手日報新聞』にしばしば寄稿し、芸術全般にわたって一般読者の啓蒙に力を注ぎました。賢治は盛岡農高での大正4年から7年までの間、そして卒業以降も生涯を通じて敬愛し続けた一人として、哲学・美学が専門の玉置から受けた感化の大きさは計り知れないようです。特に在学中の語学の授業はもちろんのこと、大正5年当時玉置が編集長をしていた『校友会誌』を通じての交流もありました。
大正6年4月 賢治が詠んだ俳句
― ひしげたる ラッパの前に首ふりて レコードを聴く 幹事の教授 ―
【新】校本宮澤賢治全集 第一巻より
そして、卒業後も年に何回か玉置宅に遊びに来て話し込んでいたらしい。
「火の鳥」のレコードは、昭和6年の暮れ、お歳暮の代わりにといって玉置に持ってきたものと言われています。
●火の鳥(ストラビンスキー)
/ O・フリード指揮 伯林フィルハーモニー管弦楽団
「火の鳥」 L'Oiseau de Feu ( Fire‐Bird ) Stravinsky 作曲、演奏はOsker Fried w/ Berlin Philharmonic Orch. Plydor 45009 1928年発売
そこで、賢治さんの昭和8年(1933年)8月のメモ書き「西洋音楽の家元」の家元とは誰がモデルか?・・・ですが、
冒頭の件はこうでしだ。
明治四十年 先生二十才赴任
明治四十五年 大正元年
作曲、守もせむるも風ふけて、
校歌 旅音楽家来れば追い返す 蓄音機入り来る
初めは浪花ぶしやがて洋楽来る先生のぼる・・・・・・。
前述の履歴にも「明治40年11月6日盛岡高農講師として迎えられ以来28年間定職」とあることからも「西洋音楽の家元」とは玉置邁にほかなりません。
当時最先端のクラシック音楽家ストラビンスキーのレコードを選ぶあたりも玉置邁はその相手として不足はありません。賢治さんはほかにも近代音楽の先駆的な作品と言われるムソルグスキーの「禿山の一夜」も聴いていました。ちなみにこのレコードは、森荘己池にあげた一枚として現存しています。
さて、この賢治さんの「西洋音楽の家元」のメモ書きをベースにして肉付けし、一つのストーリーにまとめ上げてみようという方はおりませんか。