1927年(昭和2年)秋の「レコードコンサート」より
賢治さんは「羅須地人協会」での様々な活動の一つとして「レコードコンサート」をやっていました。
佐藤隆房著『宮沢賢治』冨山房(昭和17年初版)の中に書かれたある日の「レコードコンサート」から紹介しましょう。
昭和二年の秋の末の一夜、土地の花巻(共立)病院の院内で藤原先生*を中心として熱心な音楽愛好家が集まって、レコードコンサートが開かれました。
賢治さんと藤原さんとは大の仲良しで、仲良しだけに時々激しい論争をします。(中略)
フランスのドビッシーの何番目かの「海」という交響曲のレコードをかけられる時です。
「通俗的でも何でも、曲に解説をつければ聴きやすいからひとつ解説をつけてはどうだろうね。」と賢治さんは言いました。
「解説なんてつけたってしょうがない。聴くそれぞれの人によって感じが違うものだし、第一そんなにはっきり解説をつけるということは、音楽の場合は間違っている。」と音楽の先生は主張して譲らないのである。
「いや、とにかくそんなら私がする。」ということになって、賢治さんは立ち上がりました。
レコードはかけられて、ドビッシーの「海」の管弦楽の一曲が秋の夜の静けさに織り込まれて流れます。
「きれいなきれいな星月夜で、静まった海上に一隻の船が浮かび出た所です。乗っている漁夫が今海に入りました。次第次第に深く潜って行きます。今水の中で漁夫はたこを捕らえました。大急ぎで上がってきます。たこは船の上に上げられました。」
そのレコードが終わると同時に藤原先生は昂奮して立ち上がりました。そして賢治さんに向かって「そんな説明をするのか、君、僕は帰る。お前とは絶交だ。」と云いすてて、どんどん出て行ってしまいました。
わけを知っている人は、お腹の皮がよれるばかりおかしかったのです。吹き出しては藤原先生にすまないと思って。前こごみになって、腹をおさえながらじっと辛棒していましたが、わけを知らない人は、あまりのけんまくにギクッとしました。
藤原先生の足音が廊下に消えていったとき、傍らの人が、
「賢治さん、いいんですか。」と聞きました。すると賢治さんは、
「なに、いいんです。絶交はもうこれで三,四回目だから。」と言ったので、緊張した皆の気持ちが一時ゆるんで、どっと笑いだしてしまいました。
注)*藤原先生=藤原嘉籐治と賢治は、賢治が花巻農学校教員の時に隣接する花巻高等女子高の音楽教員だったことで出会い意気投合。嘉藤治は、演奏中の熱中状態の最高潮の時、顔がタコに似てくるので、生徒達が「タコ」とあだ名をつけていたのだそうです。
さて、どうでしょう。賢治さんにはこういったお茶目というか、人を怒らせるようなちょっぴり冗談好きな面があったようです。
ドビュッシー「海」/コッポラ指揮 音楽院コンサート協会管弦楽団 GRAMOPHON盤
1905年に出版された「海」の初版スコアの表紙。北斎『冨嶽三十六景』~「神奈川沖浪裏」に類似した絵。実際にドビュッシーの部屋の壁に北斎の「神奈川沖浪裏」が飾られていたそうです。