万城目 正(まんじょうめ ただし)と賢治

 


万城目 正(まんじょうめただし)と賢治 

  万城目 正といえば、古賀政男、古関祐而、服部良一を受け継ぎ昭和の歌謡史に偉大な業績を残した人物として知られる人。彼の作品には叙情的なしっとりとしムード曲が多く、外国のリズムを歌謡曲に取り入れ高峰三枝子が歌った ♪懐かしのブルース、♪別れのタンゴ、♪情熱のルムバ など一連の名曲。美空ひばりの ♪越後獅子の歌、♪悲しき口笛、♪東京キッドは彼女をスターへと押し上げた初期のヒット曲。島倉千代子のデビュー ♪この世の花、大ヒット曲 ♪旅の夜風 は当時乙女の涙を誘い、代表曲 ♪りんごの歌 は敗戦のショックで虚脱状態にあった多くの人々に、大きな夢と、あしたに希望を与えました。

  万城目 正は、1905年(明治38年)北海道幕別町で生まれ1968年63才で歿しました。万城目 正が華々しく活躍した舞台は東京ですが、なぜか彼のお墓は仙台市北山・子平町の林子平が眠る同じ「龍雲院」にあります。実は「龍雲院」は古くから万城目家ご先祖の菩提所なのです。

 そこで万城目家の歴史をたどってみると、先祖は稗貫と称し、源頼朝に仕え功を挙げ、奥州稗貫郡(現・花巻)鳥谷崎(とやざき)城を賜る。天正18年(1590)城陥され城を受け渡しますが、文禄2年正月(1593)貞山公が宮城野で猟の折りお目通りを許され、公は事情を鑑み禄を賜り伊達の家臣となります。この時姓を萬城目とし、以来萬城目荘兵衛盛馬から代々政宗公に仕え、1868年(明治元年大政奉還により北海道の幕別に移り住むも、万城目家は1667年(寛文7年)から龍雲院を菩提所としています。

 北海道の幕別で育った万城目 正は、音楽を志し武蔵野音楽学校でバイオリンを専攻、昭和11年頃から松竹キネマの音楽部を担当、映画主題歌を作曲。昭和13年日本コロムビアの専属とり、その後数々のヒット曲を生み日本を代表する昭和歌謡の作曲家となります。・・・が、

 駆け出し時代の大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災、東京で職を失った活動写真の弁士や楽士のなかには地方に活躍の場を求める人も大勢いました。そんな中で盛岡を訪れた映画人のひとりに万城目 正もいました。盛岡には1915年に開館した岩手県初の映画常設館・紀念館がありましたが、その館主の円子 正(まるこただし)は東華管弦団の楽長=指揮者も兼ねていました。まだ無名の青年楽士だった万城目(当時18歳)は、その紀念館でチェロ弾きをしており、昭和2年開館の岩手県公会堂の6月の落成記念式典には円子 正氏指揮のオーケストラで、彼がチェロを弾いたという記録もあります。

   一方、賢治はそのころ、大正15年花巻農学校を退職し、羅須地人協会を設立し活動を始めた時代にあたります。岩手県公会堂が開館した昭和2年の9月以降になりますが、賢治はお気に入りの映画の一つ、エミール・ヤニングス主演の映画「肉体の道」を弟の清六さんと花巻「朝日座」で見たことになっていますが、この映画の東京「邦楽座」での上映で楽士を務めたのは、当時日本交響楽協会に在籍していた黒柳守綱黒柳徹子の父)で、画面のバイオリンのシーンに合わせて弾く絶妙な演奏が語り継がれています。そこで気になるのが、花巻「朝日座」ではそのバイオリンをだれが弾いたのか?です。当時盛岡で活躍していた太田カルテットのメンバーという見方もありますが、『セロ弾きのゴーシュ』に出てくる「金星楽団」が演奏を披露する場所が「町の公会堂のホール」と設定されていることから、ゴーシュのモデルは万城目 正であり、「朝日座」で楽士としてバイオリンを弾いたのも万城目 正であったふうに考えてもおかしくはない。

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「肉体の道」を解説した弁士のレコード

 

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「ジャズ一節 肉体の道」 左側5行