藤原嘉藤治のその後

藤原嘉藤治とは?

 賢治の音楽における無二の理解者であった藤原嘉藤治とはどんな人なのでしょう?

 2018年にWOWOW連続ドラマとして放送された「宮沢賢治の食卓」(鈴木亮平が賢治役)で藤原嘉藤治を演じたのは山崎育三郎でした。現在NHK朝ドラで放映中の「エール」では山崎育三郎は佐藤久志役としてちょっとキザな音楽教師役を演じていますが、これがどうしても「宮沢賢治の食卓」の時の藤原嘉藤治と被ってしまう。どちらも音楽教師でちょっとお洒落でキザ?な役柄。で、実際の嘉藤治はどうだったのでしょう? 

 昭和3年(1928年)賢治の仲人でユキ子さんと結婚。昭和8年(1933年)9月賢治が亡くなって1週間後辞表をだして学校を退職し、翌年賢治全集編纂のため上京し東京に家族と居をかまえました。しかし10年後の終戦間際の8月13日故郷岩手県矢巾に戻りました。その間こんなはなしもあります。賢治と仲が良かった後輩の森荘己池も戦前上京しようとしましたが、日本が戦争への道に向かう状況を察し、今は来るべき時ではないと助言したそうです。森壮己池の四女の三紗さん(盛岡市在住)は、‟もしあの時父が東京へ行っていたら私はこの世に生を受けなかったかもしれない”と語っているそうです。

 帰郷した嘉藤治は賢治の精神を実践しようと紫波町水分村東根山麓に入植。同じ開拓農民の過酷な労働環境、厳しい生活状況を改善するためにさまざまな開拓行政へはたらきかけもおこないました。県の開拓者連盟委員長などを長年務め、1971年、岩手県の県政功労賞を受賞しました。

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嘉藤治が入植した紫波町水分村の「ビューガーデン」に隣接している嘉藤治の家

 さて、音楽好きだった嘉藤治が残したレコード183枚が現存しているということを最近知り、情報を伝手に運よくそれらのレコードのリストを見せていただくことができました。クラシックについては賢治さんの聴いていた楽曲と被るものはほとんどなく、開拓時代を乗り越えて、多少ゆとりが出てきた頃でしょうか?多分終戦後の昭和5~60年以降に入手したものの多くは農業や山の暮らしの匂いのする民謡や俚謡、奥さんの好きな純邦楽などが多いのですが、それらに混ざって60年代のビートルズやフレンチポップスなど、私も青春時代に聴いた曲も同じように聴いていたことに親しみを感じました。賢治さんも長く生きていたら戦時中はどうしたのだろう?ビートルズに出会ったときはどう感じたのだろう?東京オリンピックは・・・等、と想像することがあります。嘉藤治は昭和52年(1977年)81歳で死去されました。