「1923年~26年 賢治にとって“ジャズ”がマイブームだった。」・・・賢治の「ジャズ」の情報源はシカゴ?

「1923年~26年 賢治にとって“ジャズ”がマイブームだった。」

 賢治の「ジャズ」の情報源はシカゴ?

 

 2020年3月、「1923年~26年 賢治にとって“ジャズ”がマイブームだった。」というタイトルで、賢治が出会ったジャズについて次のように書いた。

・・・ジャズのみならず様々な種類の音楽を聴いていた賢治ですが、それらの音楽情報をどこから得ていたのだろう。多くは、当時のレコード会社各社が出していた月間「レコード音楽目録」からと思われる。また、親友藤原嘉藤冶の追想によると、「新しいレコードでシューベルトを聴いたりベートーヴェンを聴いたりしますと、すぐにその楽聖たちの伝記や曲の解説を、原書まで読みあさり、あとまで忘れないのです。音楽のことなども、ですから専門の私よりずっとくわしく知っています。」(森荘己池「座談会・賢治素描」『宮沢賢治の肖像』(津軽書房)とあるように、物事のあらゆるその延長上にある情報についても良く知っていて、相当の情報通であったようだ。また、当時の日本の“ジャズ”を取り巻く情報は、賢治にセロを教えた大津三郎が、「3日間のレッスンの後にお別れの茶話会をやった」と言っているが、ハタノ・オーケストラ時代の知識や映画館の奏楽の体験を持つ大津三郎から得た情報もあったにちがいない。

 賢治は確実に1922~23年にはジャズを知っていた。そしてこの時期の何年かの間、頭の中に“ジャズ”というマイブームがあった。それもまだ“ジャズにもなっていない”当時の日本のジャズメン?が演奏するジャズよりも本場もののジャズを聴いて知っていた。・・・

 

 このように、今日まで(2021年7月末)賢治とジャズについて、日本の浅草オペラや映画館の奏楽といった日本のジャズの変遷をたどり、何とか賢治とジャズの結びつきの糸口を見つけようとしてきた。しかし、どうもすっきりしないままだった。

 ところが意外にも、賢治とジャズの結びつきの答えは簡単なところにあった。

そのヒントが隠されていたのは、澤口たまみ著「宮澤賢治 愛のうた」(夕書房)だった。

今まであまり明らかにされていなかった、賢治と相思相愛にもかかわらず離別を余儀なくされ、その後シカゴへ渡った大畠ヤスの存在である。

 賢治が稗貫農学校の教諭になって二年目の1922(大正11)年の春、レコードコンサートをきっかけに大畠ヤスと恋仲となるも、賢治の結婚観や結核持ちといったどうにもならない事情により丸一年で破局を迎える。1923(大正12)年12月、賢治はヤスが大迫町出身のイリノイ州シカゴで旅館業を営んでいた年上の及川末太郎に嫁ぐことを知った。そしてヤスは、1924(大正13)年6月14日に及川とともに横浜を出港し、同年6月27日米国ワシントン州シアトル着後シカゴへと向かった。しかしヤスはその後わずか三年、1927(昭和2)年4月13日「急性心臓拡張」によりシカゴで息をひきとる。狂乱の20年代(Roaring Twenties)と言われるアメリカ、シカゴで。

以下参考文献

1,澤口たまみ(2018)『新版宮澤賢治愛のうた』夕書房          

2,「花巻市博物館研究紀要」第14号P27~33(2019年3月発行)布臺一郎論文

3,浜垣誠司さんのブログ『宮澤賢治の詩の世界』に「シカゴの及川家の消息」参照

 

 二人の心が揺れ動いたこの期間は、くしくも「1923年~26年 賢治にとって“ジャズ”がマイブームだった」という私が設定したその時期と符合する。

 

「ジャズ」と関連する言葉が賢治作品に登場し始めるのは1924年(大正13年)の作品「ポランの広場」からだ。

「ポランの広場」第2幕のト書には、幕開け前の曲としてタンゴの曲 ♪ Hacienda. the society Tango の レコードをかけることになっている。さらに劇中登場する猫博士は、広場で演奏をしているオーケストラに向かって “キャッツホヰスカアといふやつ をやってもらひたいな” と言う。

このシーンに登場する ♪ Hacienda, the society Tango の作曲者のPaul Biese はシカゴを拠点にオーケストラを率い演奏活躍した人物だ。そして、キャッツホヰスカア(猫のひげ)という曲は、デキシーランド・ジャズの実存する曲 ♪ The Cat's Whiskersで、1920年シカゴで結成されたシカゴ・ベンソン・オーケストラが1923年に発売したものだ。「ビクター・レコード目録」月報(1923年9月)に掲載されている。

 さらに、「セロ弾きのゴーシュ」の中で、‟愉快な馬車屋ってジャズか“ のセリフのヒントとなったと思われる曲 ♪ Livery Stable Blues は、全米で100万枚のジャズの大ヒット曲  で演奏者のOriginal Dixieland Jazz Bandが結成されたのもシカゴであり、同様にニューオリンズからシカゴに活躍の場を移したルイ・アームストロングなど、この時期のシカゴはまさにジャズの中心となっていた。

 

 別れはしたものの、愛おしいヤスが行ってしまうシカゴとはどんなところなのだろう。どんなものが流行っていて、どんな音楽が流れているのだろう。なんでも調べなければ気が済まない賢治特有の性格がシカゴという街に向けられた。賢治にとってシカゴを通じてジャズを知るのは容易なことであり、まさにこのことこそが「当時の日本のジャズメン?が演奏するジャズよりも本場もののジャズを聴いて知っていた」ことになるのだ。またこの時期の賢治の詩編には、ヤスや及川末太郎(太市という名前で登場)、そしてシカゴと思われる場所を盛り込んだ詩も何篇か存在する。 

 その後、翌1925年(大正14年)7月19日作の「岩手軽便鉄道 7月(ジャズ)」、翌々年同人雑誌「銅鑼」7号に載った「ジャズ夏のはなしです」といった具合に“ジャズ”が登場する。

 賢治がジャズを知るきっかけを作ったのは、浅草オペラや映画館の奏楽と考えるのは全く無関係ではなかったと思うが、的の中心が外れていて肩透かしをくらってしまった。

 

追記①

 1914年、アメリカが第一次世界大戦に参戦し、ニューオリンズの海軍基地が重要な拠点となったことで兵隊たちの規律の問題から、1917年、20年間続いた売春地区・ストーリーヴィルは閉鎖される。職を失ったミュージシャンたちは、発展の真っ最中で比較的差別の少ないシカゴへと向かう。南部の畑の害虫や洪水被害で職を失った農民やらも加えてたくさんのアフリカンアメリカンがシカゴに流入した。

 当時はまだジャズというジャンルが「ジャズ」という名称ではなく、アメリカ南部地域のことを指す「Dixieland」(ディキシーランド)と呼ばれていた。その頃に、ニューオリンズから移り住みシカゴで結成されたOriginal Dixieland Jazz Bandが ♪ Livery Stable Blues (後の邦題「馬小屋のブルース」)をニューヨークでレコーディングし、これがジャズ史の中で初めて発売されたレコードとなった。

追記②

大畠ヤスについての一部始終を花巻在住の布臺一郎さんが、米国公文書記録のインターネット閲覧等を利用して綿密に調査している。

その論説「花巻市博物館研究紀要」第14号リンクP27~33(2019年3月発行)には、

これまでに大畠ヤスに関して出版された本の内容とは大きく違う部分もあり、賢治ファンの真実の情報を知りたい、という共通の思いに応えてくれるものである。

以下「花巻市博物館研究紀要」第14号リンクP27~33から引用すると、

 

及川(大畠)ヤス 

1900(明治33)年4月7日生まれ 1927(昭和2)年4月13日死亡 豊沢町出身※花巻出身

及川末太郎    

1881(明治14)年4月12日生まれ 死亡時期・場所不明 1943(昭和18)年9月23日 第二次抑留者交換で帰国した可能性あり 大迫町出身

及川修一     

1926(昭和元)年8月3日生まれ 1929(昭和4)年4月2日死亡 出生住所シカゴ市エリス街2949番

 

ヤスの死因:僧帽弁狭窄症・心不全(誘因:拡張型心筋症)

修一の死因:急性粟粒性結核

及川末太郎は1898年5月からイリノイ州に在住

職業はホテル業(及川旅館:oikawa room)、食料品店(及川日本品商会)

住所 シカゴ市エリス街2949番

 

ヤス(23)と末太郎(45)の渡米は1924年6月14日横浜出航。同年6月27日米国ワシントン州シアトル着。KAGAMARUの乗船者名簿には末太郎とヤスの名前が掲載されており旅費は二人で300ドル