「沈んだレコード」 二つの証言
大正十一年夏 1922年
賢治が稗貫農学校(後の花巻農学校)の教諭となった翌年、創作意欲盛んな時期にあたります。夏の出来事、賢治の生徒のひとりで何事にも積極的だった宮沢貫一(この年10月2日退学、盛岡の岩手工業学校へ転校)と仙台へと出かけます。
その宮沢寛一の話によると、
(証言其の一)
「私は花巻駅を宮沢先生よりも一列車早く出発して、途中下車、平泉で遊び次の列車を待って先生と一緒になり仙台に行った。イギリス海岸を愛称した北上川畔で見つけた偶蹄類の足跡、化石などの標本を先生は持っていかれた。仙台に着いたときは暗くなっていた。持参した標本を東北大学にあずけ、それから東一番丁の盛り場を人波にもまれながら本屋をあさり、楽しみにしていたレコードを先生は何枚か買い求めた。それから映画を観て仙台駅前に宿をとった。
遅くなったけれども二人は夕食をとるため夜の街に出て、小さいが粋な造りの割烹店の二階で夕食をすませ、静かになった街をぶらついて帰り休んだ。
翌朝一番列車で塩釜に行き、塩釜神社に参拝してから遊覧船に乗って松島にでることにした。」
『証言 宮澤賢治先生~イーハトーブ農学校の1580日~』佐藤成著 農文協 より
とあり、この後事件が起きる。次回へと続く・・・・
余談ですが、休みを利用して憧れの都会へ出かけ、大きな本屋さんやレコード店をあさったり、盛り場をぶらついたりと今と変わらない行動が1922年、およそ100年前にもあったことがわかり興味深いですね。賢治も仙台で「番ブラ」をやったんですね。