谷崎潤一郎とジャズ、そして賢治

 

 米国で初めてジャズがレコーディングされたのは、1917年オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドの ♪"Livery Stable Blues"(馬小屋のブルース)で100万枚のヒットとなったことはよく知られる話ですが、その後の大ヒットといえばポール・ホワイトマンの ♪ウィスパリング(ささやき)でしょう。どちらの曲も日本では一般大衆が知るヒット?とまではなりませんでした。

 前者は、宮沢賢治の童話「セロ弾きのゴーシュ」のなかで狸の子が持ってきた譜面を見てゴーシュが「なんだ、愉快な馬車屋ってジャズか」と言う場面がありますが、「愉快な馬車屋」という曲のタイトルは「"Livery Stable Blues"(馬小屋のブルース)」が確実にヒントになっていると思います。この曲の邦題「馬小屋のブルース」は戦後つけられたもので、"Livery Stable Blues"の本来の意味はむしろ「車屋のブルース」で、曲中には馬の嘶きなどが入っていてとても愉快な曲調です。なので、賢治さんは「愉快な馬車屋}としたのはごく自然の事なのです。ほかに戯曲「ポランの広場」に登場する「キャットウヰスカー」もシカゴ・ベンソン・オーケストラ(1923年)のディキシーランド・ナンバーです。他にもありますが賢治さんは1920年ごろからとにかく本場物のジャズを聴いていました。

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 賢治作品の中に「ジャズ」がいろいろと登場することから、賢治さんは文学者として「ジャズ」を題材として取り入れた先駆者と決め込んでいました。

 時代は大正ロマンといわれ西洋文化が多く取り入れられていた時期ですから、当然知識階層の多くも西洋の音楽と接する機会が多かったことは想像できます。文人としては、川端康成谷崎潤一郎永井荷風佐藤春夫らが活躍した時代でもあります。

 永井荷風は1900年代初頭にはアメリカやフランスを外遊し、繁くオペラや演奏会に通い、ヨーロッパのクラシック音楽の現状を『西洋音楽最近の傾向』『欧州歌劇の現状』などの書物に残したり、リヒャルト・シュトラウスドビュッシーなど近代音楽家を紹介したりと、日本の音楽史に功績を残していることから、多分その後登場したジャズにもある程度精通していたと思われます。

 また、谷崎潤一郎が、1921年に小田原から横浜・本牧の海岸に移り住み、その時代の暮しぶりを回想した随筆「港の人々」(1923年)で描いた本牧界隈の生活描写には、・・・

 2軒を隔てた隣には、当時最もよく知られていたチャブ屋「キヨ・ハウス」があった。「横浜の港へ出入りする外国の船員であったら、知らない者は恐らくなかったであろう」とあり、 

 私の二階の書斎からは、恰もその家のダンス・ホールが真向かいに見え、夜が更けるまで踊り狂う乱舞の人影につれて、夥しい足踏みの音や、きゃッきゃッと云う女たちの叫びや、ピアノの響きが毎晩のように聞こえるのだった。ピアノは潮風に曝されて錆びているのか、餘韻のない、半ば壊れたような騒々しい音を立てて、いつでも多分同じ客が弾くのであろう、フォックス・トロットのホイスパリングを鳴らしていることが多かった。

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 「港の人々」 大正12年(1923年)11月号「女性」(プラトン社)に掲載より  

 とあります。

 1919年には全米で社交ダンスが流行。翌20年にはラジオが普及。ポール・ホワイトマンの「ささやき」(ウィスパリングWhispering )がラジオからヒット。日本ではどの程度知られるヒットとなったかは定かではないが、谷崎潤一郎1923年の随筆「港の人々」にこの曲が登場している。

横浜・本牧の家のまわりには、フランス人やらポルトガル人、アメリカ人やらが住んでいて、その人たちから西洋スタイルの生活を身近に享受していた様子が描かれている。

 都会派の文人にとって「ジャズ」など日常のことでわざわざ題材にすることもなかったのでしょう。それに比べ東北の田舎人?賢治さんにとって「ジャズ」は衝撃的な音楽だったのだと思う。1920年頃から25年ごろ賢治さんにとってジャズは正にマイブームだったのです。