牧野富太郎-鳥羽源蔵-宮沢賢治

牧野富太郎-鳥羽源蔵-宮沢賢治

 

 5月21日河北新報朝刊に、植物学者牧野富太郎陸前高田出身の同じ植物学者鳥羽源蔵にあてた手紙が市の博物館で展示されているという話題が紹介された。牧野富太郎といえば今放送中のNHK連続テレビ小説「らんまん」のモデルになった人物だ。手紙の内容から同じ植物学者としての二人の交友を伺うことができると書いてある。

 鳥羽は、1922年(大正11年)5月には岩手県師範学校教諭心得となり、1928年(昭和3年)には岩手県師範学校(現在の岩手大学教育学部)教諭となるが、この時代に宮沢賢治と交流がある。

 1922年(大正11年)、盛岡で毒蛾の大量発生という出来事があり、鳥羽は岩手日報、岩手毎日新聞などにその実態調査について寄稿していた。それを読んだ賢治は、それを題材に作品『毒蛾』、『ポラーノの広場』では「五、センダード市の毒蛾」として描いている。また同じ年の8月、賢治は花巻高等女学校の教諭藤原嘉藤治が鳥羽と交友があることを知り、イギリス海岸で見つけた偶蹄類やクルミなど様々な化石の照会をお願いする。そしてそれらの化石は鳥羽を介して東北大の早坂一郎助教授に手に渡り、早坂助教授は1925年(大正14年)に、賢治が説明案内役を務め、イギリス海岸で実地調査を行なった。その結果は「地学雑誌」に論文「岩手県花巻町化石胡桃に就いて」として発表され大きな評価を得ることになる。

 このように牧野富太郎と鳥羽源蔵、そして賢治が繋がっていたとは興味深い。賢治作品『猫の事務所』には、「トバスキー酋長」「ゲンゾスキー財産家」の名前が登場する。もちろん鳥羽源蔵からいただいたネーミングだ。なんとも鳥羽のイメージが伝わってくるようでおもしろい。

 

出前講座 「蓄音機で聴く宮沢賢治と音楽」 のご案内

出前講座 「蓄音機で聴く宮沢賢治と音楽」3月15日

 宮沢賢治はたくさんのレコードを聴き、それらを詩や童話などの作品に取り込んでいました。クラシックのみならず、1923(大正十二年)年頃に賢治はジャズやタンゴ、英米のポピュラーソングなどいわゆる洋楽の流行音楽も良く聴き知っていました。本講座では特に「賢治と音楽」をテーマに、賢治作品に登場する曲にエピソードを交えながら、当時のSPレコードを蓄音機で聴いていただきます。

タイトル: 出前講座 「蓄音機で聴く宮沢賢治と音楽」『ポランの広場』より

日  時: 2023年3月15日(水)14時~16時 

ところ : 「宿はこや」 岩手県紫波町山屋字外村259-1 TEL, 090-6492-5161

      問合せ、お申込み 080-1829-0861 佐々木、0196-76-5796 畠山

参加費 : 1,000円程度(お問い合わせください)

     *定員に限りがありますので、参加希望の方は事前にお申し込みください。

講  師: ささきたかお 岩手県北上市(旧黒沢尻町)生まれ。大学卒業後仙台を拠点に音楽の様々な仕事に携わり、2007年-2018年ジャズの店を経営。その時期、賢治作品にジャズが登場していることを知り、以来クラシック問わず賢治が聴いたと思われるSPレコードを蒐集、それらをCDに復刻したアルバムを5枚リリース。2021年「宮沢賢治学会イーハトーブセンター功労賞」を受賞。賢治と音楽をテーマに様々な活動を続けている。

主な選曲:

  ●  Hacienda - The Society Tango/フェリックス・アルント「ポランの広場」

  • デセクレーション・ラグ/フェリックス・アルント「火薬と紙幣」『春と修羅』(風景とオルゴール)
  • キャッツホヰスカ― The Cat's Whiskers/シカゴ・ベンソン・オーケストラ「ポランの広場」
  • フロー・ジェントリー Flow Gently, Sweet Afton(牧者の歌/オリーブ・クライン「ポランの広場」
  • つめくさの花の咲く晩に In The Good Old Summertime/ハイドン・カルテット「ポランの広場」
  • ポラーノの広場」の歌(つめくさ灯ともす)Ihatov Farmers Song 賛美歌448 「ポランの広場」 
  • ほか

 

出前講座 「蓄音機で聴く宮沢賢治とジャズ」3月16日

  宮沢賢治はたくさんのレコードを聴き、それらを詩や童話などの作品に取り込んでいました。クラシックのみならず、1923(大正十二年)年頃に賢治はジャズやタンゴ、英米のポピュラーソングなどいわゆる洋楽の流行音楽も良く聴き知っていました。本講座では特に「賢治とジャズ」をテーマに、賢治作品に登場する曲にエピソードを交えながら、当時のSPレコードを蓄音機で聴いていただきます。

タイトル: 出前講座 「蓄音機で聴く宮沢賢治とジャズ」  

日  時: 2023年3月16日(木)14時~16時 

ところ : 盛岡バスセンター3F 穐吉敏子ジャズミュージアム:Cafe Bar West38 

                    盛岡市中ノ橋通一丁目9-22 盛岡バスセンター内 3F. TEL, 080-6036-0038

参加費 : 無料、ただし ドリンク等のオーダーをお願いします。

     *定員に限りがありますので、参加希望の方は事前にお申し込みください。

講  師: ささきたかお 岩手県北上市(旧黒沢尻町)生まれ。大学卒業後仙台を拠点に音楽の様々な仕事に携わり、2007年-2018年ジャズの店を経営。その時期、賢治作品にジャズが登場していることを知り、以来クラシック問わず賢治が聴いたと思われるSPレコードを蒐集、それらをCDに復刻したアルバムを5枚リリース。2021年「宮沢賢治学会イーハトーブセンター功労賞」を受賞。賢治と音楽をテーマに様々な活動を続けている。

主な選曲:

     ●Hacienda - The Society Tango/フェリックス・アルント「ポランの広場」

     ●デセクレーション・ラグ/フェリックス・アルント「火薬と紙幣」『春と修羅

   (風景とオルゴール)

  • The Cat's Whiskers/シカゴ・ベンソン・オーケストラ「ポランの広場」
  • Livery Stable Blues馬小屋のブルース/オリジナル・デキシーランドジャス・バンド「セロ弾きのゴーシュ
  • 印度へ虎狩りにですって/ニュー・メイフェア・ダンス・オーケストラ「セロ弾きのゴーシュ」 ほか

 

 

賢治、百年の謎解き

賢治、百年の謎解き

 

 盛岡在住の絵本作家・エッセイスト 澤口たまみさん著 『宮沢賢治 百年の謎解き』 という本が昨年8月に刊行された。『宮沢賢治 愛のうた』(2018年)に続き、賢治作品を読み解くキーワードとして、賢治の教諭時代に恋仲だった大畠ヤスの存在と『春と修羅』に収められた一連の詩との関連、解釈についての謎に迫る。

 大畠ヤスが見え隠れする作品の中でのヤスは、例えば JAZZはYASS と韻を踏み暗に置き換えられているのでは?という。詩「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」は、「岩手軽便鉄道 七月(ヤス)」、「ジャズ 夏のはなしです」は「ヤス 夏のはなしです」となる。なるほどと唸る。

 JAZZという言葉は、言い伝えによると当初JAZZではなく “JASS”と呼んでいた。だがJASSはスラングで隠語にあたり思わしくない意味合いがあることから誰かしらが‟JAZZ“と呼ぶようにしたらしい。この経緯を考慮に入れるとJAZZ-JASSYASSといった具合にごく自然にJAZZがYASS(ヤス)になる。

 さて、それでは賢治はJASSという言葉を知っていただろうか。

セロ弾きのゴーシュ」の中に出てくるジャズといえば、ゴーシュがセロの練習中の小屋に夜な夜なやってくるさまざまな動物たち。その中で子供の狸が持ってきた譜面を見てゴーシュは “愉快な馬車屋って ジャズか” という。とあるから「愉快な馬車屋」という曲が存在することになるが、おそらく賢治は、1917年米国で最初に録音されたジャズ曲として100万枚の大ヒットとなった ♪Livery Stable Blues (戦後日本では「馬小屋のブルース」と邦題がつけられた)を知っていてそれを「愉快な馬車屋」と名付けて登場させた。とは私の予てからの推論だ。Livery Stableとは馬車駅のこと。曲調は馬の嘶きなどが入った愉快な曲であることから賢治はこの曲の邦題を「愉快な馬車屋」とつけたのでしょう。そして"はッ”と気づいて驚いた。この曲を演奏しているグループの名前です。通称 Original Dixieland Jazz Band オリジナル・デキシーランド・ジャズ・バンドなのですが、SPレコード盤の盤面の表記には Original Dixieland‘Jass’Band と書かれている。まさに‘Jass’なのです。賢治はこの表記を知ってJAZZ-JASS-YASS としたとも考えられる。

JAZZ-JASSとYASS、この命題も「百年の謎解き」の一つとなるのだろうか。

出前講座 SPレコードで聴く「宮沢賢治と音楽」 開催について

      出前講座

SPレコードで聴く「宮沢賢治と音楽」 

     開催について

        ―78rpmからの着想(ひらめき)-

 

 宮沢賢治は、クラシックのみならずジャズやタンゴなどの洋楽曲など、本当に沢山のレコードを聞いていました。それらの音楽から得た着想がさまざまな作品のなかに散りばめられています。

宮沢賢治と音楽」について、より多くの皆さんに知っていただきたく出前による講座を開催いたします。

賢治が聴いた曲や聴いたと思われる曲についてエピソードをまじえながら、当時のSPレコード盤を蓄音機で再生し聴いていただきます

 

開 催 要 項

◎お申し出いただければ条件の許す限り何処へでも伺います。

◎講座参加人数は最低5名から20名程度までとします。

◎講座参加の対象は原則高校生以上とします。

◎参加費の設定は自由ですが、資料代として講座内容により500円~1000円を含めてください。

◎出前出張費は、資料作成費等10,000円+交通費(+必要な場合宿泊費)を頂戴いたします。(営利事業の場合は別途料金となります)

車移動の場合は、およそのガソリン代+高速料金等となります。列車等の移動の場合蓄音機等の大きな荷物もありますので別途輸送するなどご相談の上決めさせていただきます。

◎講座会場にてCD等関連品の販売をさせていただきます。

◎講座内容は別紙のリスト(A-H)からお選びください。一つの講座はおよそ2時間といたします。夏期講座など複数の講座を連日で行うこともご相談承ります。

 いずれの講座もそれぞれのエピソードを交えながら曲を聴いていただく内容で一つの講座5~10曲程度となります。リストの曲目はあくまでも候補と考えられる曲です。

以上、不明確な点はお問い合わせください。

 

企画・制作

Destupargo  

ささきたかお

〒981-0905 仙台市青葉区小松島4-20-12

お申込み、お問い合わせは ☎ 022-398-6088   メール: jmb@kih.biglobe.ne.jp

 

≪講座リスト≫ 候補曲

  A「ポランの広場」   「ポランの広場」「ポラーノの広場」の作品と音楽

  • Hacienda - The Society Tango/フェリックス・アルント   
  • The Cat's Whisker/シカゴ・ベンソン・オーケストラ   
  • 牧者の歌 Flow Gently, Sweet Afton アフトンの流れ/オリーブ・クライン
  • つめくさの花の咲く晩に In the Good Old Summertime/ハイドン・カルテット
  • ポラーノの広場の歌(賛美歌448)

 

  B「春と修羅」と音楽    「春と修羅」の中に登場する曲を聴く

  • 交響曲第6番「田園」第2楽章/ビクター・コンサート管弦楽団 ・・・「小岩井農場
  • 序奏 ロンド・カププリチョーソ/ヴェセルラ・イタリアン・バン ・・・「小岩井農場
  • ワルツ「女学生」/ストランスキー指揮 ・・・「青森挽歌」、童話『黄いろのトマト』
  • 葬送行進曲 Funeral March 吹奏楽版(ショパン) /アーサー・プライヤー・バンド・・・「オホーツク挽歌」、「雲とはんのき」(風景とオルゴール) 
  • 歌劇 ウィリアムテル序曲 暁のモチーフ/ビクター・コンサート・オーケストラ・・・ (風景とオルゴール)
  • デセクーション・ラグ/フェリックス・アルント 「火薬と紙幣」・・・(風景とオルゴール)
  • ボレロ‐「スペイン舞曲Op.12-5」/J・パスタ―ナック指揮 ビクター・コンサート・オーケストラ・・・『冬と銀河ステーション』(風景とオルゴール)

  

  C「セロ弾きのゴーシュ」   物語に登場する音楽について

  • トロメライ 「子供の情景」より(シューマン) /プリホダ
  • 印度へ虎狩りにですって/ニュー・メイフェア・ダンス・オーケストラ
  • Livery Stable Blues馬小屋のブルース/オリジナルデキシーランドジャスバンド  
  • ハンガリア狂詩曲 匈牙利狂想曲(ポッパー) /セルゲイ・ストウピン 

 

  D「銀河鉄道の夜」    物語の背景にある音楽について

  • ボレロ「スペイン舞曲Op.12-5」 (モシュコフスキー)

       /J・パスタ―ナック指揮 ビクター・コンサート・オーケストラ

       /J・パターナック指揮 コンサート ・オーケストラ  

  • ベートーヴェンの幻想(ベートーヴェン) /アーサー・プライヤー・バンド
  • ラ・カンパネラ(リスト) /エミール・フォン・ザウアー    
  • ブライテスト・デイズ・ガヴォット(ミハイリス) /ウィリアム H. レイズ(ベル・ソロ)
  • 交響曲第5番 運命 第1楽章 (ベートーヴェン) /J・パスタ―ナック指揮 ビクター・コンサート・オーケストラ ・・・『銀河ステーション』(風景とオルゴール)

 

  E 現存する賢治が聴いたレコードについて

      宮沢賢治記念館に展示のレコードや友人森荘己池に贈ったレコードなど

 

  F 賢治が聴いたと記録に残されたているレコード

 

  G 賢治開催のレコードコンサートやレコード交換会、作品、逸話に登場する曲

  • 兵士の合唱 (グノー) /ニューヨーク・グランド・オペラ・・・歌曲「角礫行進曲」
  • It's a Long, Long Way to Tipperary/アメリカン・カルテット ・・・童話『フランドン農校の豚』
  • スイミングワ゛ルツ/東京帝国劇場専属管弦楽々手  ・・・『イギリス海岸』 劇『饑餓陣営』
  • チョコレート兵隊(オスカー・シュトラウス )/ビクター・ライト・オペラ ・・・劇『饑餓陣営』
  • 太湖船(中国民謡)/敷島管弦團 (大阪) ・・・賢治直筆の譜面
  • 眠りの精 Sandmӓnnchen(ブラームス)/立松房子(S)
  • 「海」 三つの交響描写曲 第1楽章(ドビュッシー)/ピエロ・コッポラ指揮 パリ音楽院
  • 「主よみもとに近づかん」(メーソン)/ジョン・マコーマック・・・「四〇九 〔きょうもまたしょうがないな〕」 (「春と修羅 第二集」)

 

  H 賢治が作曲した曲や替え歌にした曲について

  • 星めぐりの歌 =シチリアナポリ(リスト)/ジョセフ・ホフマン
  • ポラーノの広場の歌(賛美歌448)
  • 角礫行進歌 兵士の合唱 (グノー) /ニューヨーク・グランド・オペラ
  • 月夜のでんしんばしら
  • 精神歌、応援歌
  • It's a Long, Long Way to Tipperary/アメリカン・カルテット・・・童話『フランドン農校の豚』
  • スイミングワ゛ルツ/東京帝国劇場専属管弦楽々手 ・・・ 『イギリス海岸』 劇『饑餓陣営』
  • Flow Gently, Sweet Afton アフトンの流れ/オリーブ・クライン
  • In the Good Old Summertime/ハイドン・カルテット
  • 種山が原(交響曲第9番新世界より」第2楽章) (ドヴォルジャーク)/J・パターナック指揮 ビクター・コンサート ・オーケストラ                   以上

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ラグタイム」とドビュッシー、ストラヴィンスキーそして賢治

ラグタイム」とドビュッシーストラヴィンスキーそして賢治

 

 米国の黒人音楽のルーツとして、シンコペーションの特徴的なリズムを持つジャズの前身の一つと言われている「ラグタイム」は、19世紀後半に、♪エンターティナーで知られるスコット・ジョプリンなどによって作曲され一大ブームとなりました。

その「ラグタイム」が「ラッグ」という言葉で賢治作品に登場します。

1923年の『春と修羅』の中の一篇「火薬と紙幣」です。

 

           萓の穂は赤くならび

   雲はカシユガル産の苹果の果肉よりもつめたい

   鳥は一ぺんに飛びあがつて

   ラツグの音譜をばら撒きだ・・・・・

 

  同じ時期に書かれたといわれている「ポランの広場」には、その冒頭のト書きに「Hacienda.The Society Tangoのレコードをかける」とありますが、このタンゴ曲が収められたSPレコード盤のもう片面に「Desecration Rag」(「冒涜のラグ」=クラシックのピアノ小品曲のメドレーをラグタイム風に弾いている)というラグタイム曲が収められています。賢治はこのSPレコード盤を聴いていたことからも「ラグタイム」を知っており、「火薬と紙幣」の中にその言葉“Rag”を取り入れました。

 この後、賢治作品の中に、前出の「ポランの広場」にはシカゴ・ベンソン・オーケストラの「The Cat’s Whiskers」というディキシーランド・ジャズ曲、『春と修羅』の中の「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」、「ジャズ夏のはなしです」、それから 『セロ弾きのゴーシュ』に出てくるゴーシュのセリフ “なんだ愉快な馬車屋ってジャズか。” といった具合にジャズという言葉が出てきます。*「愉快な馬車屋」というジャズは、1917年に全米で大ヒットしたオリジナル・ディキシーランド・ジャズバンドの「Livery Stable Blues(後の邦題「馬車屋のブルース)」ではないかとは筆者の見解。

 

 それでは賢治はどんな経緯でこの「ラグタイム」を知ったのでしょう。

調べていくうちにわかったことに、賢治が聴いていたドビュッシーストラヴィンスキーの作品に「ラグタイム」作品があることです。

賢治が聴いたとされているドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」、「夜想曲(Nocturnes)」、交響詩「海」といった曲が作曲されたのは1890年から1909年頃で、賢治が中学に入学する前の時代です。また、ストラヴィンスキーの「火の鳥」も聴いていますが1910年の作品です。

いずれも賢治が聴いたのは、レコードに深く興味を示しはじめた1921年(大正10年)に稗貫農学校の教師になった頃からです。

 ドビュッシーの代表作のもう一つ、1906年の「子供の領分」には、賢治が聴いたという記録は見つからないものの、その中の1曲に「ゴリウォーグのケークウォーク (Golliwogg's Cake-Walk)」、そして1909年の「小さな黒人 (Le petit Nègre)」と言った具合にラグタイムを意識した曲がありジャズの先駆けの曲とも言われています。

 一方、ストラヴィンスキーは1910年の「火の鳥」、11年の「ペトルーシュカ」、13年「春の祭典」というバレエ三部作が有名ですが、1917年から1918年にかけて作曲した楽曲 に『11楽器のためのラグタイム』(仏: Ragtime pour onze instruments)通称『ラグタイム』があります。また、1919年のピアノ曲『ピアノ・ラグ・ミュージック』(Piano-Rag-Music)というのもあります。ストラヴィンスキーはこの時期、タンゴをはじめ世界の民衆音楽にも目を向け聴いていたともいわれています。

賢治作品「ポランの広場」に、前記のタンゴをはじめジャズや英米のホームソングも出てくることからもドビュッシーストラヴィンスキー、二人の作曲家の創作の脈略から何らかの影響を受けていたのではないだろうかと考えられます。

*SP盤で現存するストラヴィンスキーラグタイム」、演奏マルセル・メイエール(ピアノ)1925年録音。フランス"Gramophone" W727(12インチ)盤。片面はアルベニス「ナヴァーラ」

 

 余談ですが、ドビュッシーストラヴィンスキーが与えたジャズへの影響はさまざまで、例えば、天才トランぺッター、ビックス・バイダ―ベック1927年のピアノ曲 『In a Mist』は、ドビュッシーラヴェルレスピーギなどのクラシックの印象派の音楽とジャズのシンコペーションを融合したものと言われています。また、マイルス・デイヴィスの自作曲「So What」は、マイルスの朋友ギル・エヴァンスによると、ドビュッシー前奏曲集第1巻に収録されているヴェールVoilesを下敷きにして作曲されたともいわれています。

また、1910年後半から20年代にかけてのストラヴィンスキーラグタイムに向けられた関心は、後の1940年代には、その当時に演奏されていた実際のジャズのスタイルに向けられ、その影響による作品がいくつか書かれています。

ジョージ・ガーシュイン1924年の 「ラプソディ・イン・ブルー」(Rhapsody in Blue)は、逆なアプローチとして黒人音楽のジャズとクラシックを融合させ「シンフォニック・ジャズ」の代表的な成功例として世界的に評価されました。その後の作品 「パリのアメリカ人」(An American in Paris、1928年)もよく知られていますが、ジョージ・ガーシュインオーケストレーションを学びたいがためにストラヴィンスキーラヴェルの元を訪れたといわれています。このガーシュインの曲が賢治の耳に届くにはもう少し時間が必要だったようです。

「賢治のトランク」

『賢治のトランク』という版画・画集に出合った。

 

 ある日、仙台駅に近い知人の歯科医のビルが新築完成したと聞いてささやかなお祝いを持参して訪ねた。歯科医は一枚の版画が収められた額を持ち出してきた。秋田の叔父宅から頂いてきたというこの版画の絵にはコントラバスを提げたジャズマンが描かれていた。なかなか雰囲気のある好みのタッチの絵だ。

 説明によるとこの版画の作者は、盛岡在住の大場冨生さんで私と同じ団塊の世代の終わりごろの年齢だという。彼がテーマとして描いているのは何と「宮沢賢治とジャズ」だと聞いて”えッ”と驚いた。「賢治とジャズ」といえば私の研究テーマではないか。気になり調べてみると、1996年に上梓した『賢治のトランク』という版画集もあることを知り早速手に入れた。この本のタイトル『賢治のトランク』は、賢治の実弟宮沢清六著『兄のトランク』から拝借したのは明白である。

 賢治は1921(大正10)年25歳の時、突然思いたって家を飛び出し上京した。法華経国柱会本部を訪ね、街頭布教や奉仕をしながら創作活動し、たくさんの童話の草稿が書かれた。妹トシの喀血の知らせを受け帰宅したときに持ち帰ったのがそれらの童話原稿がいっぱい詰まった大型のトランクだった。宮沢童話の多くは、このとき草案が書かれ、構想ができたといわれている。

 このトランクとは違うが、賢治は1928年の上京時に神田「日活館」で田中豊明が指揮し日活管弦楽団が演奏する和洋合奏「謎のトランク」という曲を聴いている。レコード付帯の解説によると、「一臺の自動車が遥か彼方から爆音勇ましく到着する。トランクが開かれると先ずおなじみのキャラバン、續いて深川踊り・・・」といった具合に当時流行っていたジャズソング「キャラバン」(エリントンのあれではない)などと金毘羅船船などのご当地ソングがメドレーで演奏される。もちろん賢治はこの5年以上前からすでに本場もののジャズを知っていたが、日本ではちょうど「ジャズ」という言葉が一般的になってきたころだ。この「謎のトランク」を聴いた時に書かれた「神田の夜」とう詩がある。ジャック・ケルアックを思わせるビートニクな詩だと私は解釈している(余談だが賢治の『春と修羅』は萩原朔太郎の「月に吠える」から着想を得たともいわれている)。『セロ弾きのゴーシュ』の中では、ゴーシュはやってきた狸の子とセロと小太鼓のセッションをやらせている。賢治は1933年には亡くなってしまうが、その頃には遠く日付変更線を超えて聞こえてくるベン・ウェブスターレスター・ヤングチャーリー・パーカーなどによってカンザスシティで開花した「ジャム・セッション文化をもう感知していたに違いない。

 大場冨生氏の一枚の版画の中の「ジャズマン」「賢治とジャズ」から浮かんできたことを思いのままに・・・。

「1923年~26年 賢治にとって“ジャズ”がマイブームだった。」・・・賢治の「ジャズ」の情報源はシカゴ?

「1923年~26年 賢治にとって“ジャズ”がマイブームだった。」

 賢治の「ジャズ」の情報源はシカゴ?

 

 2020年3月、「1923年~26年 賢治にとって“ジャズ”がマイブームだった。」というタイトルで、賢治が出会ったジャズについて次のように書いた。

・・・ジャズのみならず様々な種類の音楽を聴いていた賢治ですが、それらの音楽情報をどこから得ていたのだろう。多くは、当時のレコード会社各社が出していた月間「レコード音楽目録」からと思われる。また、親友藤原嘉藤冶の追想によると、「新しいレコードでシューベルトを聴いたりベートーヴェンを聴いたりしますと、すぐにその楽聖たちの伝記や曲の解説を、原書まで読みあさり、あとまで忘れないのです。音楽のことなども、ですから専門の私よりずっとくわしく知っています。」(森荘己池「座談会・賢治素描」『宮沢賢治の肖像』(津軽書房)とあるように、物事のあらゆるその延長上にある情報についても良く知っていて、相当の情報通であったようだ。また、当時の日本の“ジャズ”を取り巻く情報は、賢治にセロを教えた大津三郎が、「3日間のレッスンの後にお別れの茶話会をやった」と言っているが、ハタノ・オーケストラ時代の知識や映画館の奏楽の体験を持つ大津三郎から得た情報もあったにちがいない。

 賢治は確実に1922~23年にはジャズを知っていた。そしてこの時期の何年かの間、頭の中に“ジャズ”というマイブームがあった。それもまだ“ジャズにもなっていない”当時の日本のジャズメン?が演奏するジャズよりも本場もののジャズを聴いて知っていた。・・・

 

 このように、今日まで(2021年7月末)賢治とジャズについて、日本の浅草オペラや映画館の奏楽といった日本のジャズの変遷をたどり、何とか賢治とジャズの結びつきの糸口を見つけようとしてきた。しかし、どうもすっきりしないままだった。

 ところが意外にも、賢治とジャズの結びつきの答えは簡単なところにあった。

そのヒントが隠されていたのは、澤口たまみ著「宮澤賢治 愛のうた」(夕書房)だった。

今まであまり明らかにされていなかった、賢治と相思相愛にもかかわらず離別を余儀なくされ、その後シカゴへ渡った大畠ヤスの存在である。

 賢治が稗貫農学校の教諭になって二年目の1922(大正11)年の春、レコードコンサートをきっかけに大畠ヤスと恋仲となるも、賢治の結婚観や結核持ちといったどうにもならない事情により丸一年で破局を迎える。1923(大正12)年12月、賢治はヤスが大迫町出身のイリノイ州シカゴで旅館業を営んでいた年上の及川末太郎に嫁ぐことを知った。そしてヤスは、1924(大正13)年6月14日に及川とともに横浜を出港し、同年6月27日米国ワシントン州シアトル着後シカゴへと向かった。しかしヤスはその後わずか三年、1927(昭和2)年4月13日「急性心臓拡張」によりシカゴで息をひきとる。狂乱の20年代(Roaring Twenties)と言われるアメリカ、シカゴで。

以下参考文献

1,澤口たまみ(2018)『新版宮澤賢治愛のうた』夕書房          

2,「花巻市博物館研究紀要」第14号P27~33(2019年3月発行)布臺一郎論文

3,浜垣誠司さんのブログ『宮澤賢治の詩の世界』に「シカゴの及川家の消息」参照

 

 二人の心が揺れ動いたこの期間は、くしくも「1923年~26年 賢治にとって“ジャズ”がマイブームだった」という私が設定したその時期と符合する。

 

「ジャズ」と関連する言葉が賢治作品に登場し始めるのは1924年(大正13年)の作品「ポランの広場」からだ。

「ポランの広場」第2幕のト書には、幕開け前の曲としてタンゴの曲 ♪ Hacienda. the society Tango の レコードをかけることになっている。さらに劇中登場する猫博士は、広場で演奏をしているオーケストラに向かって “キャッツホヰスカアといふやつ をやってもらひたいな” と言う。

このシーンに登場する ♪ Hacienda, the society Tango の作曲者のPaul Biese はシカゴを拠点にオーケストラを率い演奏活躍した人物だ。そして、キャッツホヰスカア(猫のひげ)という曲は、デキシーランド・ジャズの実存する曲 ♪ The Cat's Whiskersで、1920年シカゴで結成されたシカゴ・ベンソン・オーケストラが1923年に発売したものだ。「ビクター・レコード目録」月報(1923年9月)に掲載されている。

 さらに、「セロ弾きのゴーシュ」の中で、‟愉快な馬車屋ってジャズか“ のセリフのヒントとなったと思われる曲 ♪ Livery Stable Blues は、全米で100万枚のジャズの大ヒット曲  で演奏者のOriginal Dixieland Jazz Bandが結成されたのもシカゴであり、同様にニューオリンズからシカゴに活躍の場を移したルイ・アームストロングなど、この時期のシカゴはまさにジャズの中心となっていた。

 

 別れはしたものの、愛おしいヤスが行ってしまうシカゴとはどんなところなのだろう。どんなものが流行っていて、どんな音楽が流れているのだろう。なんでも調べなければ気が済まない賢治特有の性格がシカゴという街に向けられた。賢治にとってシカゴを通じてジャズを知るのは容易なことであり、まさにこのことこそが「当時の日本のジャズメン?が演奏するジャズよりも本場もののジャズを聴いて知っていた」ことになるのだ。またこの時期の賢治の詩編には、ヤスや及川末太郎(太市という名前で登場)、そしてシカゴと思われる場所を盛り込んだ詩も何篇か存在する。 

 その後、翌1925年(大正14年)7月19日作の「岩手軽便鉄道 7月(ジャズ)」、翌々年同人雑誌「銅鑼」7号に載った「ジャズ夏のはなしです」といった具合に“ジャズ”が登場する。

 賢治がジャズを知るきっかけを作ったのは、浅草オペラや映画館の奏楽と考えるのは全く無関係ではなかったと思うが、的の中心が外れていて肩透かしをくらってしまった。

 

追記①

 1914年、アメリカが第一次世界大戦に参戦し、ニューオリンズの海軍基地が重要な拠点となったことで兵隊たちの規律の問題から、1917年、20年間続いた売春地区・ストーリーヴィルは閉鎖される。職を失ったミュージシャンたちは、発展の真っ最中で比較的差別の少ないシカゴへと向かう。南部の畑の害虫や洪水被害で職を失った農民やらも加えてたくさんのアフリカンアメリカンがシカゴに流入した。

 当時はまだジャズというジャンルが「ジャズ」という名称ではなく、アメリカ南部地域のことを指す「Dixieland」(ディキシーランド)と呼ばれていた。その頃に、ニューオリンズから移り住みシカゴで結成されたOriginal Dixieland Jazz Bandが ♪ Livery Stable Blues (後の邦題「馬小屋のブルース」)をニューヨークでレコーディングし、これがジャズ史の中で初めて発売されたレコードとなった。

追記②

大畠ヤスについての一部始終を花巻在住の布臺一郎さんが、米国公文書記録のインターネット閲覧等を利用して綿密に調査している。

その論説「花巻市博物館研究紀要」第14号リンクP27~33(2019年3月発行)には、

これまでに大畠ヤスに関して出版された本の内容とは大きく違う部分もあり、賢治ファンの真実の情報を知りたい、という共通の思いに応えてくれるものである。

以下「花巻市博物館研究紀要」第14号リンクP27~33から引用すると、

 

及川(大畠)ヤス 

1900(明治33)年4月7日生まれ 1927(昭和2)年4月13日死亡 豊沢町出身※花巻出身

及川末太郎    

1881(明治14)年4月12日生まれ 死亡時期・場所不明 1943(昭和18)年9月23日 第二次抑留者交換で帰国した可能性あり 大迫町出身

及川修一     

1926(昭和元)年8月3日生まれ 1929(昭和4)年4月2日死亡 出生住所シカゴ市エリス街2949番

 

ヤスの死因:僧帽弁狭窄症・心不全(誘因:拡張型心筋症)

修一の死因:急性粟粒性結核

及川末太郎は1898年5月からイリノイ州に在住

職業はホテル業(及川旅館:oikawa room)、食料品店(及川日本品商会)

住所 シカゴ市エリス街2949番

 

ヤス(23)と末太郎(45)の渡米は1924年6月14日横浜出航。同年6月27日米国ワシントン州シアトル着。KAGAMARUの乗船者名簿には末太郎とヤスの名前が掲載されており旅費は二人で300ドル