賢治とタイタニック号沈没事件

銀河鉄道の夜」と塩竈・・・というタイトルがついた「NPOみなとしおがま」という団体が編纂した興味深い冊子がある。賢治が15歳の時の修学旅行で訪れた塩竈でのできごとなどが、「銀河鉄道の夜」の中に描かれている内容のモチーフになっているという事について、当時の事実をもとに解き明かしている。あまりにもそれらしく一致していることに驚いてしまう。

 「銀河鉄道の夜」の場面設定では港町でなければならないこと。ジョバンニとお母さんの会話に出てくる「ラッコの毛皮」と拿捕事件。お母さんの牛乳を取りに行く牛乳屋が実際にあり、その先には牧場があったこと。銀河鉄道に乗り込んでくるずぶ濡れの青年と二人のこどもが、修学旅行の1ヶ月少し前に起きた「タイタニック号沈没」のシーンからワープしてきたことが発想になっていること。修学旅行の途中、近くの菖蒲田浜で病気療養中のおばさんをお見舞いに立ち寄るが、「銀河鉄道・・」では、寝たきりのお母さんとして描かれていること・・・などなど。

 とてもワクワクするような、なるほどと唸ってしまうような筋立てには本当に心が躍る。しかし、冷静に捉えてみると疑問も出て来る。賢治が修学旅行で塩竈を訪れた時は中学生で15歳。当時、実際に①「タイタニック号沈没」の事件を知っていただろうか?②修学旅行の滞在の間に牛乳屋や牧場といった地理的位置関係を知ることができただろうか?などなど。

 

 そもそも「銀河鉄道の夜」はフィクションであり、賢治が過去に体験したさまざまな記憶が発想の源になっていることは事実であることを前提としなければならない。

 

 「銀河鉄道」の名称は、「岩手軽便鉄道」と捉えるのが一般的である。

賢治の作品に「銀河」という言葉が使われるようになったのは、『春と修羅』/風景とオルゴールの一篇「冬と銀河ステーション」だ。1923年(大正12年)12月10日の作品で、「銀河鉄道の夜」の着想は1924年頃から始まり1933年まで続くことから、その前触れとも言ってよい。

 「冬と銀河ステーション」の舞台は、文中の「パッセン大街道」(花巻と仙人峠の花と仙から採ったとされる)は花巻と現在の東和町・土沢駅の間。猿ヶ石川沿いの市には毛皮や陶器や蛸が並ぶとある。銀河ステーションは岩手軽便鉄道の土沢駅という事だろう。

 

 それから、1925年(大正14年)7月19日に詠まれた未刊の「岩手軽便鉄道 七月ジャズ」(「春と修羅 第二集」)があるが、翌1926年に同人詩誌「銅鑼」では、この詩が「ジャズ 夏のはなしです」と題目が変わり、文中の「岩手軽便鉄道」が「銀河軽便鉄道」となっている。このことからも、やはり「銀河鉄道」は「岩手軽便鉄道」であるという根拠となっているのだろう。

 

*以下、今野勉著書「宮沢賢治の真実」(新潮社)による。

銀河鉄道の夜」の着想の時期のこんな出来事が残されている。

1924年(大正13年)12月1日に賢治の最初の童話集「注文の多い料理店」が出版された。その12月上旬に、装幀と挿絵を担当した菊地武雄と花巻高女の音楽教師・藤原嘉藤冶が出版を祝って賢治のために宴席を設けてくれた。この席上、賢治は「今こんなものを書いている」といってオーバーのポケットから一握りの原稿を取り出した。以下は菊池武雄の証言による。

 『 「どんなのだス」 「銀河旅行ス」 「ワア、銀河旅行すか、おもしろそうだナ」 「場所は南欧あたりにしてナス、だから子供の名などもカンパネラという風としあんした」・・・・それからあらすじの説明がある。・・・とある。

 まさに「銀河鉄道の夜」の原形が出来上がっていることを示すエピソードだ。「銀河ステーション」の詩から1年後のこと。

 この時点で舞台は「南欧」であり、自らが考えだした「ケンタウルス祭」の日という設定は星座「ケンタウルス」がよく見える地域でなければならなかった。主人公のジョバンニはイタリアの寺院、友人のカンパネルラは、鐘つき堂の鐘のこと。

 

 さて、「銀河鉄道の夜」の着想が表立った同じ月の12月24日、クリスマスイブの日、19歳も年上ながら賢治と深い交友があったクリスチャンの斉藤宗次郎(後に内村鑑三の弟子としても知られる人物)が賢治を訪ねている。斉藤宗次郎の「二荊自叙伝」によると、《農学校を訪問、賢治と内村鑑三および中村不折のこと、ベートーヴェンのシンフォニーのことを語り合う》とある。

 年譜によると、同じ大正13年4月22日、賢治は斉藤の求康堂を訪れ、詩集「春と修羅」を手渡して「どうか批評してくなんせ」と言った。斉藤は当然「永訣の朝」や「青森挽歌」をはじめとする「ホーツク挽歌」詩群を読んだ。そこには、妹とし子の魂の行方を求める賢治の旅が描かれていた。斉藤はその姿に胸を打たれたことだろう。また、同年8月27日、賢治を職員室に訪れ、ドヴォルザーク交響曲「新世界」の「ラルゴ」に合わせて自らの作詞した歌を朗々と歌うのを聞いた。

 こんな経緯があって、なぜか斉藤が訪れた12月24日の12日後の翌1925年・大正14年1月5日、賢治は突然、友人らの正月の約束をすべて反故し、冬の陸中海岸へと旅たった。

 

*以降の記述は、今野勉著書「宮沢賢治の真実」(新潮社)によるものですが、賢治が突然陸中海岸に旅立ったことを著者はこう推理している。

 斉藤は「春と修羅」を読み、賢治がとし子の死後を深く案じ、彼女との交感を願っていることを知ったのだ。とし子の死後、どんな姿になりどんな世界に生きているのかと思いをめぐらせている賢治の心に打たれた。

 斉藤は、タイタニックで自ら犠牲となっていった人々の復活を説いた内村鑑三の講演を思い起こす。犠牲者の肉体は神の手によってふたたび復活すると師は説いていた。《農学校を訪問、賢治と内村鑑三および中村不折のこと、ベートーヴェンのシンフォニーのことを語り合う》・・・とあるが、内村鑑三の話の中で、「タイタニック号」沈没にまつわる話を聞いたと考えられる。そのことがきっかけとなり、タイタニックが沈んだ冬の海、とし子との交感、ケンタウルス座を冬でも見ることができるだろうかといったことを確かめたいために急に冬の陸中海岸へと旅立った。

 

  「タイタニック号沈没」事件は、賢治が15歳の盛岡中学四年生の4月22日に起きた。その年の5月27日から29日、修学旅行で塩竈を訪れた。石巻で一泊後、翌10時ごろ石巻を船で出発、11時30分、松島に到着、瑞巌寺など見物後、蒸気船で塩竈へ。外海(仙台湾)はその日はあいにく大荒れだったとあるが、その時、44日前の「タイヤニック号沈没」事件を賢治は知っていただろうか?

 

 知っていたかは別にして、とにかく1924年(大正13年)の暮れから24年(大正14年)以降賢治はこの事件で起きたことについて大変な興味を示している。その表れの一つとして、陸中海岸から戻った後の1月25日には、タイタニック号を題材の中に採りいれた詩を書いている。「きょうもまたしょうがないな」(「春と修羅」第2集)の文中の “・・・ タイタニックの甲板で Neare my God かなにかうたう 悲壮な船客まがいである”・・といった文面だ。そして、以後、「タイタニック号の沈没」事件のワンシーンが「銀河鉄道の夜」の大きなテーマとして描かれることになる。

 

 肝心の「銀河鉄道の夜」の舞台設定だが、今野勉さんの本では、稿を重ねるうちに、ドイツトウヒやケンタウルス座の観点から北欧(ドイツ)へ。そしてケンタウルス座と土星を賢治と保坂嘉内にみたてたり、と「犠牲」や「死後の世界」といった観点へと途方もない推理が進んでいく。

 

 実際のところ、フィクションというのは、その発想の源となる事柄は、体験して得た時系列は無視しても構わないわけだから、どれが正しいかは賢治本人のみにしかわからない。さまざまな体験からのヒントが混在しているとみてもよいのでは。

 

 牛乳屋や牧場といった地理的位置関係を知ることができただろうか?という疑問について、一つだけ事実に基づいたヒントがある。

弟・宮沢清六さん著「兄のトランク」の中に、“・・・またこの頃、塩釜の海に買ったばかりのレコードを落としたり・・・”といった記述がある。この頃とは何時のことか? 

検証すると1922年の仙台行きの帰りに、塩釜神社参拝、松島観光を目的に賢治は塩釜を訪れている。