賢治とタイタニック号沈没事件

タイタニック号沈没」事件は、賢治が15歳の盛岡中学四年生の1912年4月14日に起きました。その年の5月27日から29日、修学旅行で塩竈を訪れました。石巻で一泊後、翌10時ごろ石巻を船で出発、11時30分、松島に到着、瑞巌寺など見物後、蒸気船で塩竈へ。外海(仙台湾)はその日はあいにく大荒れだったといいますが、その時、44日前の「タイヤニック号沈没」事件を賢治は知っていたでしょうか? 賢治は若いころから親戚筋の新聞取扱店に行っては新聞を読み漁っていたというから、この事件のことも知っていて  “あゝ、自分もタイタニック号と同じ運命にあうのだろうか”と思ったのかもしれない。

 しかし、「銀河鉄道の夜」の構想の12年前のこの出来事が「銀河鉄道の夜」のワンシーンのモチーフになった、と言う方もいますがどうでしょう?

 知っていたかは別にして、とにかく1924年(大正13年)の暮れから24年(大正14年)以降、賢治はこの事件で起きたことについて大変な興味を示していることがわかります。その表れの一つとして、陸中海岸から戻った後の1月25日には、タイタニック号を採りいれた詩を書いています。「きょうもまたしょうがないな」(「春と修羅」第2集)の文中の   

“・・・ タイタニックの甲板で Neare my God かなにかうたう 悲壮な船客まがいである”・・ 

    *♪ Neare my God は讃美歌「主よみもとにちかづかん」の原曲名

 という文面です。そして、同じ時期「タイタニック号の沈没」事件のワンシーンが「銀河鉄道の夜」の大きなテーマとして描かれるように改稿されていきます。

 

銀河鉄道の夜」の着想の時期、その裏にこんな出来事が残されています。

 以下、今野勉著書「宮沢賢治の真実」(新潮社)を参考に考察してみると・・・・・、

 1924年(大正13年)12月1日に賢治の最初の童話集「注文の多い料理店」が出版された。その12月上旬に、装幀と挿絵を担当した菊地武雄と花巻高女の音楽教師・藤原嘉藤冶が出版を祝って賢治のために宴席を設けてくれた。この席上、賢治は「今こんなものを書いている」といってオーバーのポケットから一握りの原稿を取り出した。

以下は菊池武雄の証言によると、

 『「どんなのだス」「銀河旅行ス」「ワア、銀河旅行すか、おもしろそうだナ」「場所は南欧あたりにしてナス、だから子供の名などもカンパネラという風としあんした」・・・・それからあらすじの説明がある。・・・とある。

 まさに「銀河鉄道の夜」の原形が出来上がっていることを示すエピソードだ。「銀河ステーション」の詩から1年後のこと。

 この時点で舞台は「南欧」であり、自らが考えだした「ケンタウルス祭」の日という設定は星座「ケンタウルス」がよく見える地域でなければならなかった。主人公のジョバンニはイタリアの寺院、友人のカンパネルラは、鐘つき堂の鐘のこと。 

 さらに、「銀河鉄道の夜」の着想が表立った同じ月の12月24日、クリスマスイブの日、19歳も年上ながら賢治と深い交友があったクリスチャンの斉藤宗次郎(後に内村鑑三の弟子としても知られる人物)が賢治を訪ねている。斉藤宗次郎の「二荊自叙伝」によると、《農学校を訪問、賢治と内村鑑三および中村不折のこと、ベートーヴェンのシンフォニーのことを語り合う》とある。

 年譜によると、同じ大正13年4月22日、賢治は斉藤の求康堂を訪れ、詩集「春と修羅」を手渡して「どうか批評してくなんせ」と言った。斉藤は当然「永訣の朝」や「青森挽歌」をはじめとする「ホーツク挽歌」詩群を読んだ。そこには、妹とし子の魂の行方を求める賢治の旅が描かれていた。斉藤はその姿に胸を打たれたことだろう。また、同年8月27日、賢治を職員室に訪れ、ドヴォルザーク交響曲「新世界」の「ラルゴ」に合わせて自らの作詞した歌を朗々と歌うのを聞いた。

 こんな経緯があって、なぜか斉藤が訪れた12月24日の12日後の翌1925年(大正14年)1月5日、賢治は突然、友人らの正月の約束をすべて反故し、冬の陸中海岸へと旅たった。

 

*以降の記述も、今野勉著書「宮沢賢治の真実」(新潮社)によるものですが、賢治が突然陸中海岸に旅立ったことを著者はこう推理している。

 斉藤は「春と修羅」を読み、賢治がとし子の死後を深く案じ、彼女との交感を願っていることを知ったのだ。とし子の死後、どんな姿になりどんな世界に生きているのかと思いをめぐらせている賢治の心に打たれた。

 斉藤は、タイタニックで自ら犠牲となっていった人々の復活を説いた内村鑑三の講演を思い起こす。犠牲者の肉体は神の手によってふたたび復活すると師は説いていた。《農学校を訪問、賢治と内村鑑三および中村不折のこと、ベートーヴェンのシンフォニーのことを語り合う》・・・とあるが、この時賢治は内村鑑三の話の中で、「タイタニック号」沈没にまつわる話を聞いたと考えられる。そのことがきっかけとなり、タイタニックが沈んだ冬の海、とし子との交感、ケンタウルス座を冬でも見ることができるだろうかといったことを確かめたいために急に冬の陸中海岸へと旅立った。・・・・

 

 つまり、賢治は斉藤宗次郎から聞いた「タイタニックで自ら犠牲となっていった人々の復活を説いた内村鑑三の講演」に痛く感銘し、それが「銀河鉄道の夜」のワンシーン(ずぶ濡れになって現れた二人の子供と手を繋いだ青年がタイタニック号沈没と思われるシーンからワープしてくる)の着想に、そして「きょうもまたしょうがないな」(「春と修羅」第2集)の文中に反映されることになった・・・。

 

 実際のところ、フィクションというのは、その発想の源となる事柄は、体験して得た時系列は無視しても構わないわけだから、どこが正しいかは賢治本人のみにしかわからない。さまざまな体験からのヒントが混在しているとみてもよいのでは、とも思います。いかがでしょう?