「ジャズ 夏のはなしです」1926年(大正15年)と、その改稿未完の
「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」。
興味の始まりは“ジャズ”という言葉が出てくるこの詩につきます。
賢治はクラシック・レコードの収集家で知られていて、ベートーベンからストラビンスキーまでたくさんのクラシック音楽を聞いていました。でも、弟の清六さんの話しや記録にはジャズらしきレコードの記録はありません。
「宮沢賢治と音楽」/佐藤泰平さんの本の中に“賢治は詩を読むときはいつも即興でピアノやオルガンを弾かせていた”という記述があり、何篇かの詩を例に、その詩を読むときに使った楽曲名のメモ書きを紹介しています。
ありがたいことに、その中に「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」があり、メモには 「Gavotto /Jean Becker 」とあり、さらに調べると泰平さんのメモ書きに“ vn 鈴木鎮一”という加筆があったことを知り、やっとどんな曲かを知ることができました。
しかし、「Gavotto/Jean Becker 」はヴァイオリン曲で残念ながらジャズではありませんでした。佐藤泰平先生にお会いすることができましたが、ご自身も講演会等で「岩手軽便鉄道7月ジャズ」を朗読し、その時にはこの鈴木鎮一さんが演奏のGavotto の音源を使用しているそうです。
賢治の童話や詩で使われた音楽を調べていくと、1917年に日本でも流行した「チッペラリー」(It' A Long Long Way to Tipperary)や「猫のひげ」(The Cats Wiskers) や「恋はやさし野べの花よ」(喜歌劇「ボッカチオ」)といった曲をアレンジしたり、詞を付けたりしていることをわかりました。
大正時代は、浅草オペラを代表するような場所で、エログロナンセンス、歌に踊りに寸劇、米国の“ミンストレルショー”もどきのショーが人気を呼んでいた時代です。
賢治が岩手の花巻から上京し、その際の“浅草通い”は知られています。
賢治の年表を照らし合わせてみると、花巻から上京したのは9回と言われていますが、例えば、
①1918年(大正7年)12月26日~翌年3月)
②1921年(大正10年1月の家出~
妹トシの病態悪化の知らせを受け戻る8月まで)
③1926年(大正15年12月2日~年末まで)
④1931年(昭和6年9月20日~28日)
「ジャズ 夏のはなしです」は1926年ですから、その前に何処であれジャズに出会っていることになります。
米国では、1917年にはオリジナル・デキシ―・ジャズ・バンドがジャズでは初めてレコーディングされ「馬小屋のブルース」が100万枚のセールスが記録。また1920年にはラジオの普及が目覚ましく、ポール・ホワイトマンの「ささやき」がラジオから流された。・・・といった記録がありますが、実際のところ①②の時代に日本にはどの程度の”ジャズ”が入ってきていたのか?
また、米国ではルイ・アームストロングやシドニー・ベチェット、バディ・ホールデンやキング・オリヴァーといった人たちがニューオリンズやシカゴのジャズ・シーンで活躍した時代ですが、こういったジャズも日本に入ってきていたのか。
どうも当時の”ジャズ”という言葉の捉え方について見えてきません。
1928年の記録に“二村定一の「私の青空」「アラビアの唄」が流行しー洋楽カヴァーがジャズソングと呼ばれー流行した”という記述を見つけましが、賢治が”ジャズ”という言葉を使ってから数年後にあたりす。 つづく