「賢治とジャズ」の背景

賢治とジャズとの出会い

 

   火薬と紙幣  1923,9,30 春と修羅』/風景とオルゴール

   

   萓の穂は赤くならび

   雲はカシユガル産の苹果の果肉よりもつめたい

   鳥は一ぺんに飛びあがつて

   ラツグの音譜をばら撒きだ

      古枕木を灼いてこさえた

      黒い保線小屋の秋の中では

      四面体聚形(しゆうけい)の一人の工夫が

      米国風のブリキの缶で

      たしかメリケン粉を捏()ねてゐる

   鳥はまた一つまみ、空からばら撒かれ

   一ぺんつめたい雲の下で展開し

   こんどは巧に引力の法則をつかつて

   遠いギリヤークの電線にあつまる

      赤い碍子のうへにゐる

      そのきのどくなすゞめども

      口笛を吹きまた新らしい濃い空気を吸へば

      たれでもみんなきのどくになる

   森はどれも群青に泣いてゐるし

   松林なら地被もところどころ剥げて

   酸性土壌ももう十月になつたのだ

      私の着物もすつかり thread-bare *ボロボロにに擦り切れた

      その陰影のなかから

      逞ましい向ふの土方がくしやみをする

   氷河が海にはいるやうに

   白い雲のたくさんの流れは

   枯れた野原に注いでゐる

     だからわたくしのふだん決して見ない

     小さな三角の前山なども

     はつきり白く浮いてでる

   栗の梢のモザイツクと

   鉄葉細工(ぶりきざいく)のやなぎの葉

   水のそばでは堅い黄いろなまるめろが

   枝も裂けるまで実つてゐる

      (こんどばら撒いてしまつたら……

       ふん、ちやうど四十雀のやうに)

   雲が縮れてぎらぎら光るとき

   大きな帽子をかぶつて

   野原をおほびらにあるけたら

   おれはそのほかにもうなんにもいらない

   火薬も燐も大きな紙幣もほしくない

 

 

    ラツグの音譜をばら撒きだ・・・ ラッグ=ラグタイム

 この詩が書かれた1923930日以前に賢治は「ジャズ」を知っていた。さらに、

「岩手軽便鉄道 七月ジャズ」1925(大正14年),7,19 春と修羅 第二集』、

「ジャズ 夏のはなしです」1026(大正15年)同人詩誌「銅鑼」七号、そして

セロ弾きのゴーシュ1934(死後発表)の中にも“愉快な馬車屋ってジャズか”という件があるように賢治作品の中に「ジャズ」という言葉が使われている。

 

 日本に於いて「ジャズ」という言葉が一般的になったのは、1928年浅草オペラで人気があった二村定一が歌った♪私の青空 ♪アラビアの唄 が大ヒットし、こういった「洋楽はやり歌」を総称して「ジャズ」と呼ぶようになったと言われている。

  1923年頃、ジャズが生まれた米国はどんあ状況であったか。 

1900年初頭ニューオリンズで生まれたジャズも白人が演奏するようになり、1917年に初めてジャズの演奏がレコード化される。

そのオリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド(ODJB)の「馬小屋のブルース」は100万枚の大ヒットを記録。一方、オペラに人気があり1913年には浅草公園6区田谷力三(18歳)ローシーオペラ入団。 「ブン大将」「ボッカチオ」が人気を集める。

 また、1915年に米国から帰国した高木徳子(日本初のトゥダンサー)が人気を呼び、浅草オペラが始まる。

 そんな1916年夏に賢治は独逸語講習を名目に上京した際に「浅草オペラ」を鑑賞したとう記録がある。1919年には社交ダンスが流行。翌20年には全米でラジオが普及。ポール・ホワイトマンの「ささやき」がラジオからヒット。

 「ポランの広場」(1923年)に出て来る「キャット・ウィスカーズ」(シカゴ・ベンソン・オーケストラ)もこの年にリリース。23年賢治は1月と12月と2度上京している。同じころ日本ではラフィング・スターズ楽団、チェリーランド・ジャズバンドが人気を集める。1925年にはNHKが開局。日本もラジオの時代に入る。エログロナンセンスが流行。

 この時期賢治は、花巻農学校の教師を職を得(192112月より)、22年に「イギリス海岸」「牧歌」「永訣の朝」、23年「シグナルとシグナレス」、24年には春と修羅」、「注文の多い料理店」といった作品を発表している。また24年には生徒たちに「ポランの広場」「飢餓陣営」「植物医師」「種山が原の夜」といった戯曲を演じさせ公演している。            つづく・・・・・