「宮沢賢治は本当にジャズを聴いていた。」と証言してくれたジャズ批評・瀬川昌久さんに哀悼!

新年あけましておめでとうございます。

 新しい年を迎えましたが、年末に訃報の記事に目が止まりました。

ミュージカルやジャズ音楽評論家の長老、瀬川昌久さんが暮れの29日肺炎で死去されました。97歳でした。ご冥福をお祈りいたします。

 瀬川さんと出会ったのは、5年ほど前、日本ルイ・アームストロング協会を通じてでした。私が制作した宮沢賢治が聴いたSPレコード復刻CD「ジャズ 夏のはなしです」を送って聴いていただいたのがきっかけでした。このCDには賢治が:聴いたと思われているシカゴ・ベンソン・オーケストラのThe Cats Whiskers が入っています。この曲は賢治作品「ポランの広場」の中で、山猫博士が楽団に向かって「おいおいそいつではなしにキャッツ ホヰスカー をやってもらいたいなあ。」として登場します。瀬川さんはこのCDを聴いて返事のお手紙をくださいました。その中で宮沢賢治は本当にジャズを聴いていた。」と証言してくださいました。

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 その後、一二度やり取りすることがありましたが、病気で臥せることが多くなり、公の席にもお顔を出すことも少なくなっておりました。

 50年代にはニューヨークに住まわれ、デューク・エリントンなど当時のジャズの現場を見てきた貴重な存在でもありました。残念です。

 私が今編纂中の文章の中に、瀬川さんの著書「ジャズで踊って 舶来音楽芸能史」から文章を引用させていただいております。感謝とともに改めてご冥福をお祈りいたします。

賢治の主治医 草刈兵衛博士

草刈兵衛博士

 

佐藤隆房著「宮沢賢治」より

 P275 ・・・先の主治医であった佐藤長松博士は、それから間のない十月初めに辞職することになり、十月十日からは新しく花巻(共立)病院に赴任した草刈兵衛博士が主治医となって須山さんと力を合わせて治療に当たることになりました。この草刈博士は敬虔なクリスチャンの優れた人格者でありまして・・・

 ここに登場する草刈兵衛博士は、上記のように昭和6年10月10日に賢治の主治医となり、昭和8年賢治が亡くなる前日9月20日に最終診断を下した方でもありますが、主治医になってから、俳句・連句を通じても賢治と交友があったとされています。

 さて、我が家から仙台駅に向かって徒歩15分、仙山線東照宮駅の並びに「草刈内科医院」があります。現院長は草刈拓先生で、先代の院長は父親の草刈兵一郎先生で私も多少面識のある方でしたが故人です。この兵一郎先生の「兵」と草刈兵衛の「兵」にピンときました。「草刈兵衛は現草刈拓先生の祖父ではないか?」 このことが頭から離れず、思い切って草刈内科医院を訪ね拓先生にお伺いしました。的中しました。自分の身近なところにこんな賢治にまつわる方が・・・。

 賢治と俳句仲間であったというから、ひょっとして賢治さんとの交友の古いメモでも残っているのでは? 

 歌壇・俳壇のことは詳しくないので、この件はあまり深入りすべきでないと思いつつ、やはり気になる性分、たしか拓先生は叔母か誰かに俳壇に関わる方がいるようなお話をしていた。気にかかっていた矢先に他から情報が入ってきた。その叔母は蓬田紀枝子さんという方で、俳句の世界ではよく知られている方だという。調べてみると、高齢ながら現役として活動していることや、北上市の現代詩歌文学館の評議員でもあったという。賢治と草刈兵衛との俳句繋がり、そして草刈家と縁のある蓬田紀枝子さんは俳人だとなると、何か匂ってくる。

 再度。拓先生に伺ってみることにした。蓬田紀枝子さんは、兵一郎先生の妹であり、ということは草刈兵衛の娘であるということがはっきりした。「身体は弱ってきたが頭脳明晰で元気で、近々会うことになっている。」というお話しをいただいた。

 

 蓬田紀枝子(1930年生まれ)さんは仙台にお住まいです。草刈拓院長のお計らいによって、電話でお話を伺うことが出来ました。

 ・・・私は仙台で生まれましたが、父・兵衛(医師)の仕事の都合でちょうど生後100日の日に青森に移りました。その時にすでに二人の姉と兄・兵一郎がおりました。その後、1931(昭和6)年に花巻に移りますが、当時の花巻病院の院長だった佐藤隆房著「宮沢賢治」(「隆房院長」を「りゅうぼういんちょう」と仰っておりました)によると、花巻病院に赴任したのは、1931(昭和6)年10月10日とあり、前任の佐藤長松博士の辞職を受け継ぎ、賢治さんの主治医になったとあります。

 私はまだ一歳半から三歳の頃で、あまりよく覚えていませんが、賢治さんがお亡くなりになるまでの凡そ二年の間で記憶に残っていることといえば、賢治さんの家は裕福でしたから、診察に行くときには必ずタクシーを迎えによこします。兄・兵一郎は四・五歳の頃で、運転手さんに「おめえも乗ってぐが」 といわれて宮沢家まで同乗し、帰りにはお菓子の包みをいただいて帰ってきたという話。それから、夜中に急な往診を受けたとき、母は私に「今からお父さんは、暗くて怖いところに行くんだよ」と話したことを覚えています。賢治さんの主治医となってからおよそ二年の間に、俳句仲間としてのお付き合いもあったようですが、このことに関することは何も残っていませんし、あまりよくわかりません。

 花巻では弟たちも生まれ、みんなで幼年時代を過ごした町で、私にとってふるさとのような思い出深い町です。

 蓬田さんはご高齢ですが、20分に及ぶ電話の声からは、かくしゃくとして聡明な様子がうかがえました。父の影響もあってか、俳壇で「駒草」の三代目主宰を継承、何冊もの句集を発刊し、俳人協会顧問、日本現代詩歌文学館評議員などを歴任されました。

 

 

ブラームス「眠りの精」と賢治の花束

ブラームス「眠りの精」 

  その年(昭和二年)の夏だったかも知れない。私達は小学校の同窓会の余興に出てはどうかと云う事になった。然し楽器では自信がないから声楽をやる事にした。先生は二枚のレコードを貸してくれた。一枚は十二吋盤で曲は忘れたが面倒だったので十吋の「眠りの精」という独逸語の合唱をやる事にして練習していた。・・・・

  伊藤克己「先生と私達」-羅須地人協会時代― 『宮澤賢治研究』草野心平編より

 

 当時、立松房子というソプラノ歌手が歌った「眠りの精」のレコード盤がある。生徒たちが小学校の同窓会で歌うために練習した「眠りの精」と何か関係がありそうなエピソードが、関登久也著『宮澤賢治素描』という本の中に載っている。

 関登久也(本名 関徳弥)は、賢治からすると従叔父(いとこおじ=父方祖母の腹違いの弟の息子)にあたり、年齢は賢治の3歳下で、生前の賢治を兄のように慕っていたといわれている。

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  花 束

 昭和二年頃でありましたか、東京から声楽の立松房子夫人が花巻に参りました。夫君の立松判事が職務上の事件から、世間的に問題を捲き起こし、たいへん同情されて居りました。随つて立松夫人の独唱会もそれらの原因もあつてか人気を呼び起し、当日の朝日座に於ける会は、大入でなかなかの盛会でした。その頃賢治は羅須地人協会を開設し、音楽に多大の関心を持つて居られましたので、オルガンやギターを買つて勉強してゐると云ふ話が私達の耳にも這入つて居りました。さて当夜の独唱会には私も参り、立松夫人の奇麗な、しかも精神的なソプラノに感激して耳を傾けて居りましたが、プログラムもだんだん終りに近づいた頃、可愛い尋常一年位の女の子が舞台に出て来て、手にあまる美しい花束を、立松夫人に渡しました。花束は実に水々しく真紅の花、淡紅色の花、それに白や水色など、或ひはほやほやした毛のアスパラガスなど交へたものでした。その少女は町の宮金といふ砂糖問屋の可愛い百合子さんといふ少女でした。立松夫人は夫君を助ける為に一人児を家に置いて、地方廻りの独唱会を開いてゐるといふことなど、大分人々の同情を買つてゐましたが、花束を捧げた少女と、立松夫人のとり合せは大変涙ぐましい情景で、しかも美しい大きな花束は一層、その場面の気分を引立たせたので、満堂は酔へるが如く拍手の嵐を送りました。その時あの花束は一体誰が送ったのだらうと考へてみましたが、少したつてそれは賢治が手作りの花を少女へ頼んで渡したのだといふことがわかりました。それまでは賢治といふ人はそんなことをする人だとは思つて居りませんでしたので、意外な感興を吾々は呼びおこしたものです。

 立松夫人と大きな花束と賢治といふ取合せは今も美しい一つの詩となつて、吾々の脳裡に消ゆることなく残つてゐます。

 

 昭和二年頃、立松房子夫人の花巻・朝日座での独唱会の時のエピソードですが、前出の同じ昭和二年の夏に「学校の同窓会の余興にみんなで『眠りの精』の合唱の練習をした」とある。賢治は立松房子の朝日座の独唱会のことを知っていて、発売になったばかりの彼女が歌う『眠りの精』のレコードが手元にあったのか、そんな思いつきで、同窓会の余興にこの曲を選んだのではないかとも推測できる。

 

 

「イワテ・イズ・ザ・ハート・オブ・ジャパン」と「イーハトーブ・チルドレン」 IWATE is the Heart of JAPAN and IHATOV CHILDREN

 

「イワテ・イズ・ザ・ハート・オブ・ジャパン」という言葉は、私がここ20数年使用している標語だ。直訳すると「岩手は日本の心(ハート・精神)だ」となる。

人体を日本地図になぞらえると、頭は北海道、岩手は丁度心臓(ハート)に位置する。そして、この「イワテ・イズ・ザ・ハート・オブ・ジャパン」を短縮して読むと「イーハトーブ・ジャパン」となる。

「イワテ・イズ・ザ・ハート・オブ・ジャパン」は「イーハトーブ」の語源である。

甚だ強引な解釈だが本当らしいと云えば本当らしい。

 

 20数年前、当時私が関わっていた仙台の某・障害者支援施設が障害をテーマとした文学賞を設けていて、その審査員の一人に天沢退二郎さんがいた。天沢さんと言えば、当時それほど宮沢賢治に詳しくない私でも知る人ぞ知る「宮沢賢治研究」の第一人者だ。その天沢さんに臆面もなく尋ねた。「イワテ・イズ・ザ・ハート・オブ・ジャパン」という言葉が「イーハトーブ」の語源だと言っている人がいるのですが? 即答は、「そんな話は聞いたこともない」だった。

 実をいうとこの「イワテ・イズ・ザ・ハート・オブ・ジャパン」という言葉の解釈について私に教えてくれたのはMという知人だった。数年後このことを本人に質したところ、そんな話をした覚えがないとの答えだった。以来、この言葉は私が天から授かった言葉として使用している。

 数年前、「イワテ・イズ・ザ・ハート・オブ・ジャパン」は岩手県のキャッチコピーに最適と思い、県の「提言箱」?を通じ提言したものの何の反応もなかった。残念。

「イワテ・イズ・ザ・ハート・オブ・ジャパン」という言葉は、私のキャッチコピーとして様々な場面でこれからも使っていきたい。

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 その後に生まれた言葉が「イーハトーブ・チルドレン」だ。

ちょうど大谷翔平クンが大リーグに行った頃だったと思う。何せすごい! 岩手から大リーガーが生まれた。私の青春時代の岩手といえば、有名人は他県と比べて少ないし、何事も全国的にイメージが低く、日本のチベットなどともいわれた。知らずと劣等感を感じたとしても仕方がなかった。その岩手がすごいことになってきた。続く菊池雄星、ちょっと先輩には楽天・銀次もいる。ボクシング界の八重樫は黒沢尻工業出だ。これからが期待されるロッテの佐々木朗希もいる。とにかく岩手の子どもたちがすごい! この子たちを「イーハトーブ・チルドレン」と呼ぼう!

 

 もうずいぶん前の話だが、「先進国がトップを争いし、急ぐがゆえに行く先見えず空回りしているうちに、亀のようにゆっくりと歩んできたアイルランドの精神文化がいつの間にかトップを歩んでいた。」と言った人がいる。「一周遅れのトップランナー」という言葉があるが、蝦夷や藤原一族が築いた独特の文化が何かを生み出しているのかもしれない。「イワテ・イズ・ザ・ハート・オブ・ジャパン」なのだ。

 

 余談だが、大谷クンとホームラン争いをしているゲレーロ.Jr.  は、カナダ・トロントブルージェイズの選手だが、そのトロントにも「大谷翔平ファンクラブ」があるそうだ。なんでもコロナ禍が明けたら大谷という人間を育んだ地にみんなで行ってみたい。「奥州参り」をしたいと話しているそうだ。

 

           茄子知人商会(Eggplant friends company) ささきたかお

宮澤賢治「沈んだレコード」二つの証言 其の二

証言其の二

「沈んだレコード」

佐藤隆房著『宮澤賢治』 冨山房 昭和14年初版 より

 

 (大正十一年夏)

  レコードの蒐集に夢中な頃。わざわざ仙台にまで出かけて行き、気に入ったレコードをたずね歩いて、ようやく会心のものを四,五枚見つけて贖い、帰ったらその美しいリズムを聴こうと楽しみながら帰路につきました。帰りは塩釜様に参詣し、そこから小さな遊覧船に乗って松島に出ることにしました。ところがどうしたはずみか、その遊覧船がひっくり返ったのです。幸いにまだ塩釜の湾内であったために、すぐに水上警察ではランチを飛ばして救助にやってき、大変な騒動です。

 他の乗合いといっしょに投出された賢治さんも、水中でジャブジャブやっておりましたが、警察のランチを見ると大声で「早く、早く、大したものを落としたから、早くさがしてくれ。」と言うので乗組みの警官も「何だ、何だ。何を落としたんだ。」と聞きました。賢治さんは「レコードだ。」と言いました。

さしずめ人の命を心配している警官はすっかり憤慨して「この馬鹿野郎!レコードぐらいはなんだ。」とどなりました。

 泳ぎの出来る賢治さんは、命なんということは念頭にテンからないのですから少しおこって、「そんならいいんじゃ。」と言い返しました。

 警官達は、レコードなどはほとんど問題にしないで、遭難者をどんどん収容し、塩釜に帰り、一軒の宿屋に全部の人を休ませ、いろいろと世話をしてくれました。ところで賢治さんはレコードの外に蟇口も落としてしまったので家に帰る旅費がありません。幸いに懐中時計が残っていたので、それを質屋で金に代えようとしましたのですが、証明がないので受取ってくれません。途方に暮れていた時、さっきどなりつけた警官が証明して、三円を借りてくれました。せっかく楽しみにしたレコードを海の底に落とし、ぽかんとして花巻に帰ってきた賢治さんです。

 

 沈んだレコードはどんなレコードだったのか知りたいところです。

 この出来事の仙台で過ごした時間をちょっと分析してみると、

仙台に着いたときはもう夕方とあります。夏ですから夕方といっても日が長い、東北大

学に行ったとしても公的機関ですから5時前かな?。片平の東北大北門から一番丁へ。

本やレコードをあさるとしたら古本屋街や丸善仙台店(大正5年開業)があったはずで

す。1時間を費やしたとして夕方6時。それから映画ですか。文化横丁の名前の由来「文

化キネマ」は大正14年オープンですからこの時はまだ存在しません。が。いくつかの映

画館があったようです。当時の映画は長くはないので見終わって7時前。駅前に投宿チ

ェックインして近くの割烹で夕食。食べ終わって8時前でしょうか?人通りが少なくな

った街をぶらぶらしながら宿へ帰る。こんなとこでしょうかね。

 

宮澤賢治「沈んだレコード」 二つの証言

「沈んだレコード」 二つの証言

 

大正十一年夏 1922年

賢治が稗貫農学校(後の花巻農学校)の教諭となった翌年、創作意欲盛んな時期にあたります。夏の出来事、賢治の生徒のひとりで何事にも積極的だった宮沢貫一(この年10月2日退学、盛岡の岩手工業学校へ転校)と仙台へと出かけます。

その宮沢寛一の話によると、 

(証言其の一)

「私は花巻駅を宮沢先生よりも一列車早く出発して、途中下車、平泉で遊び次の列車を待って先生と一緒になり仙台に行った。イギリス海岸を愛称した北上川畔で見つけた偶蹄類の足跡、化石などの標本を先生は持っていかれた。仙台に着いたときは暗くなっていた。持参した標本を東北大学にあずけ、それから東一番丁の盛り場を人波にもまれながら本屋をあさり、楽しみにしていたレコードを先生は何枚か買い求めた。それから映画を観て仙台駅前に宿をとった。

 遅くなったけれども二人は夕食をとるため夜の街に出て、小さいが粋な造りの割烹店の二階で夕食をすませ、静かになった街をぶらついて帰り休んだ。

 翌朝一番列車で塩釜に行き、塩釜神社に参拝してから遊覧船に乗って松島にでることにした。」

 『証言 宮澤賢治先生~イーハトーブ農学校の1580日~』佐藤成著 農文協 より

 

とあり、この後事件が起きる。次回へと続く・・・・

 

  余談ですが、休みを利用して憧れの都会へ出かけ、大きな本屋さんやレコード店をあさったり、盛り場をぶらついたりと今と変わらない行動が1922年、およそ100年前にもあったことがわかり興味深いですね。賢治も仙台で「番ブラ」をやったんですね。

 

 

谷崎潤一郎とジャズ、そして賢治

 

 米国で初めてジャズがレコーディングされたのは、1917年オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドの ♪"Livery Stable Blues"(馬小屋のブルース)で100万枚のヒットとなったことはよく知られる話ですが、その後の大ヒットといえばポール・ホワイトマンの ♪ウィスパリング(ささやき)でしょう。どちらの曲も日本では一般大衆が知るヒット?とまではなりませんでした。

 前者は、宮沢賢治の童話「セロ弾きのゴーシュ」のなかで狸の子が持ってきた譜面を見てゴーシュが「なんだ、愉快な馬車屋ってジャズか」と言う場面がありますが、「愉快な馬車屋」という曲のタイトルは「"Livery Stable Blues"(馬小屋のブルース)」が確実にヒントになっていると思います。この曲の邦題「馬小屋のブルース」は戦後つけられたもので、"Livery Stable Blues"の本来の意味はむしろ「車屋のブルース」で、曲中には馬の嘶きなどが入っていてとても愉快な曲調です。なので、賢治さんは「愉快な馬車屋}としたのはごく自然の事なのです。ほかに戯曲「ポランの広場」に登場する「キャットウヰスカー」もシカゴ・ベンソン・オーケストラ(1923年)のディキシーランド・ナンバーです。他にもありますが賢治さんは1920年ごろからとにかく本場物のジャズを聴いていました。

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 賢治作品の中に「ジャズ」がいろいろと登場することから、賢治さんは文学者として「ジャズ」を題材として取り入れた先駆者と決め込んでいました。

 時代は大正ロマンといわれ西洋文化が多く取り入れられていた時期ですから、当然知識階層の多くも西洋の音楽と接する機会が多かったことは想像できます。文人としては、川端康成谷崎潤一郎永井荷風佐藤春夫らが活躍した時代でもあります。

 永井荷風は1900年代初頭にはアメリカやフランスを外遊し、繁くオペラや演奏会に通い、ヨーロッパのクラシック音楽の現状を『西洋音楽最近の傾向』『欧州歌劇の現状』などの書物に残したり、リヒャルト・シュトラウスドビュッシーなど近代音楽家を紹介したりと、日本の音楽史に功績を残していることから、多分その後登場したジャズにもある程度精通していたと思われます。

 また、谷崎潤一郎が、1921年に小田原から横浜・本牧の海岸に移り住み、その時代の暮しぶりを回想した随筆「港の人々」(1923年)で描いた本牧界隈の生活描写には、・・・

 2軒を隔てた隣には、当時最もよく知られていたチャブ屋「キヨ・ハウス」があった。「横浜の港へ出入りする外国の船員であったら、知らない者は恐らくなかったであろう」とあり、 

 私の二階の書斎からは、恰もその家のダンス・ホールが真向かいに見え、夜が更けるまで踊り狂う乱舞の人影につれて、夥しい足踏みの音や、きゃッきゃッと云う女たちの叫びや、ピアノの響きが毎晩のように聞こえるのだった。ピアノは潮風に曝されて錆びているのか、餘韻のない、半ば壊れたような騒々しい音を立てて、いつでも多分同じ客が弾くのであろう、フォックス・トロットのホイスパリングを鳴らしていることが多かった。

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 「港の人々」 大正12年(1923年)11月号「女性」(プラトン社)に掲載より  

 とあります。

 1919年には全米で社交ダンスが流行。翌20年にはラジオが普及。ポール・ホワイトマンの「ささやき」(ウィスパリングWhispering )がラジオからヒット。日本ではどの程度知られるヒットとなったかは定かではないが、谷崎潤一郎1923年の随筆「港の人々」にこの曲が登場している。

横浜・本牧の家のまわりには、フランス人やらポルトガル人、アメリカ人やらが住んでいて、その人たちから西洋スタイルの生活を身近に享受していた様子が描かれている。

 都会派の文人にとって「ジャズ」など日常のことでわざわざ題材にすることもなかったのでしょう。それに比べ東北の田舎人?賢治さんにとって「ジャズ」は衝撃的な音楽だったのだと思う。1920年頃から25年ごろ賢治さんにとってジャズは正にマイブームだったのです。